僕は、
――美
という概念は、個人の心の内で独自に確立している価値観によって検知されうるものであって――
その価値観の実体は個人によって様々に異なっていると考えています。
ただ古来より、なぜか「美」という言葉が存在するゆえに――
「美」は、見かけ上、他人と共有しうる概念になっているに違いない――
ということですね。
よって――
自分が「美しい」と思う事物が、他人にも「美しい」と思われているようなことは、基本的には期待しておりません。
より正確には――
期待したくありません。
仮に、他人も僕と同じように「美しい」と思っているらしいことがあったとしても――
その人の「美しい」の在り方と自分の「美しい」の在り方とは、けっこう大きくズレているだろう――
と思っていたいのです。
が――
その人も、自分と同じ「美しい」という言葉を使って意思なり感情なりを表現するものだから――
あたかも、「美」という概念が、その人と自分と心の垣根を越えて共有されているかのように感じられるだけでしょう。
もちろん――
こうした「美」の問題については、古今の哲学者が、様々な視点から論じているわけで――
そうした議論に、僕が一石を投じるつもりは微塵もありません。
ただ、
(自分の「美」は自分で決める)
と、決意表明をしたいだけなのです。
それは、少々、自分勝手な動機によります。
すなわち、
――自分が「美しい」と思っている事物は、それを自分一人で抱えこむほうが、より美しく映えるに違いない。
と思うようになったからです。
皆で「美しい!」などと言い合っていたら――
そんなに美しくは感じられませんよ。