マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

自我は根源的にわかりにくい

 自己と自我との違いは――
 そんなに広くは知られていないようです。

 これらの言葉を混同して使っている例が、ときどきみられます。

 自分で自分をみつめるときに――つまり、内省をするときに――
 みつめられている自分が自己で、みつめている自分が自我です。

 自己はわかりやすいのです。

「自己紹介」という言葉に代表されるように――
 すっかり日常語になっています。

 が――
 自我は違う――

 最後まで、よくわからない――
 それが自我です。

 例えば、「体」を「自分」に喩えると――
「手足」は「自己の一部」です。

「胴体」も「自己の一部」――

 が――
「顔」は「自我の一部」といってよいでしょう。

「眼」も「自我の一部」――
「耳」も「自我の一部」――
「鼻」も「自我の一部」――
「口」も「自我の一部」――

 手足のことは、よくわかります。
 怪我などをすれば、すぐにわかる――かすり傷でもすぐわかる――

 が――
 顔は、そうはいきません。

 よほど大きな怪我をしても、すぐにはわからない――

 もちろん――
 鏡などがあれば、すぐにわかりますよ。

 手足のように、すぐにわかる――

 が――
 人は、内省をするときには、鏡を使えません。

 そのような「鏡」の存在を想定することは、ちょっと難しい――
 少なくとも僕には、思いつきません。

 このような原理に基づいて――
 自我は根源的にわかりにくいのです。