日本人でない人に、
――AかBか?
と問われ、
――どちらでもない。強いていえば両方、あるいはAでもBでもない何か――
と答えると、
――そうした答え方は世界では通用しない。
などといわれることがあります。
その「世界」が何を指しているのかは、よくわからないことが多いのですが――
たいていは、アメリカ文化圏を指しています。
アメリカ人であろうとなかろうと、いわゆる「世界基準」といえば「アメリカ基準」であることが、ほとんどなのですね。
たしかに――
アメリカ文化圏では、「AかBか?」との問いに「強いていえば両方」とか「AでもBでもない何か」と答えたら――
人々を大いに不機嫌にさせそうです。
が――
「AかBか?」との問いに「A」とも「B」とも答えたくないときには、無理に答える必要はありません。
そういうときは、おそらくは無意識のうちに「AかBか?」の問いの立て方に疑義を挟んでいるのでしょうから――
問いの立て方に賛同できないということを、きちんと伝えればよいのです。
では――
どうすれば問いの立て方に疑義を挟めるのか?
一つは、「A」と「B」とが二律背反かどうかを考えることです。
「A」であれば「B」ではありえない、逆に「B」であれば「A」ではありえない――
そういう構図になっているかどうか、ですね。
もう一つは、「A」と「B」とを合わせたものが全体になっているかどうか――
「A」でなければ「B」であり、「A」でも「B」でもなければ、他の何物でもありえない――
そういう構図になっているかどうか――
こうした観点から、その問いの土台部分に介入することで――
アメリカ文化圏の流儀――「AかBか?」と問われたら、必ず「A」とか「B」とかと答えなければならない、という呪縛――から脱することができます。
逆に――
そうした部分に介入しない限り、「強いていえば両方」とか「AでもBでもない何か」といった答えがアメリカ文化圏で理解されることはない――
といってよいでしょう。