マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

誰かの失敗を責めるということは

 誰だって自分の失敗は人目にさらしたくないものですが――
 その失敗を無理に隠そうとする意図は、もっと気づかれたくないものです。

 ですから、何か失敗をしてしまったときは、

 ――あはは。失敗しちゃった~。

 といって笑って認めるのが、もっとも楽な対処法ですが――
 人の世には、ときには「あはは」では済まされえないことがあるものですから――
 人生、何かと大変なのですよね。

 そういうときは、昔のお侍様のように、

 ――死んでお詫び仕る!

 といって全てを背負い込むのも、一つの解決策かもしれませんが――
 いかにも虚しい対処法です。

 とはいえ――
 現に、そうせざるを得なかった人たちが、この国の過去の社会には何人もいたはずですから、

 ――蒙昧だ。

 といって切り捨てるのもいただけない――

 ――どうしたものか。

 といって悩み続けるのが、人の道としては無難でしょう。

 それくらい、奥の深い問題だということです。

 おそらくは――
 誰かが失敗をしたときに――
 失敗それ自体は、決して責めてはいけないのです。

 失敗を責めても、その失敗を取り戻せることはありえないからです。

 どうしても責めるなら、失敗に至った過程を責めるしかない――
 そして、新たな失敗を予防する――
 例えば、

 ――そういう態度で臨んでいたのなら、失敗するのは当たり前ですよね。

 という責め方です。

 この場合、責めているのは失敗それ自体ではなく、失敗をした人の態度――もう少し踏み込んでいえば、失敗をした人の全存在――です。

 もちろん、こうした責め方は、究極的には人格攻撃なので――
 あまり褒められた企図ではありません。

 人格攻撃を加えるくらいなら――
 その人から遠ざかるか、あるいは、その人を持ち場から外すほうが、ずっとマシです。

 それをしなかったということだから――
 その失敗は、すなわち周囲の人たちの失敗に他ならない――

 つまり――
 誰かの失敗を責めるということは、結局は、論理的ないしは道義的隘路に迷い込むことに等しいのです。