自分がよく知っているものは、当然ながら、その良さもよくわかっているので――
つい、それを、
――無条件に良いもの
として、他者に押しつけてしまいがちなのですが――
自分がよく知らないものは、その良さはわからず、むしろ悪さばかりが気になり――
つい、それを、
――理解するに値しないもの
として、問答無用に切り捨ててしまいがちです。
例えば――
ヨーロッパ大航海時代のキリスト教の宣教師たちのことを思い浮かべれば、わかりやすいでしょう。
彼らは、キリスト教のことは、その思想信条の中身から組織運営の実態に至るまで、よく知っていたはずです。
もちろん、その良さを十分にわかっていたでしょう。
が――
その「良さ」以外のことを十分にわかっていたかといえば、おおいに疑問です。
もし、わかっていたのなら――
わざわざ危険を冒してまで極東の島国にやってきたでしょうか。
その前に、もう少し身近なところで、自分たちが対処すべき重大な諸問題を幾つも見出していたはずです。
ウソかホントかは知りませんが――
当時のヨーロッパの宣教師たちは、
――野蛮な異教徒どもに布教をして、いち早く恭順をさせるべきか、それとも、布教の前に武力で征服し、それから落ち着いて布教をするべきか。
で、真剣に議論をしたといいます。
もし、ホントなら、
(なんと子供じみた発想か)
と呆れ返るばかりですが――
そんな噂話が、後世の極東の島国で立てられるくらい、彼らの命を賭した大航海は不自然なのです。
彼らに、自分がよく知らないものへの柔軟で寛容な態度が、もう少しあれば、
――待てよ……?
と自分たちの拠って立つところを疑うことができたでしょう。
自分がよく知っているものについては、むしろ頑固で不審な態度が、ちょうど良いのです。
「頑固」というのは、自分がよく知っているものを決して押しつけないという強い意志です。
「不審」というのは、自分がよく知っているものへ常に懐疑の目を向けるという慎重さです。