きのうの『道草日記』でとりあげた「巧遅(こうち)拙速(せっそく)に如(し)かず」についてですが――
かえすがえすも含蓄のある警句だと感じています。
一般には、「巧くやろうとして遅くなることは、拙くてもいいから速やかにやろうとすることには、かなわない」という意味で知られているのですが――
原典とされる古代中国の兵法書『孫子』の中では、そのような主張はされていないそうです。
原典にあるのは、
――兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久(こうきゅう)なるを見ざるなり。
という文言だそうです。
ここでいう「兵」とは、「戦争」あるいは「争いごと」を指します。
「巧久」とあるのは、おそらくは「巧遅」とほぼ同じ意味でしょう。
つまり、
――争いごとは、拙速がよかったという逸話ならきくが、巧遅がよかったという事態はみたことがない。
という意味なのですね。
見逃せないのは――
『孫子』では、
――あくまでも「兵」に関わることでは――
と断りを入れてある点です。
つまり――
「戦争」や「争いごと」に関わることでなければ、「拙速」が「巧遅」にまさるとは限らない――
という主張なのですね。
また、『孫子』の「拙速」は、一般に知られている「拙速」とは少し違った意味をもっています。
「拙くてもいいから速やかにやろうとすること」ではなく――
――できばえが拙くても速やかに終わりにする。
といった意味なのだそうです。
つまり、「兵は拙速なるを聞くも、いまだ巧久なるを見ざるなり」というのは、
――争いごとは、結果に満足できなくても速やかに争いをやめたのがよかったという逸話ならきくが、とことん満足するために久しく争ったのがよかったという事態はみたことがない。
といった意味なのですね。
まさに争いごとが人々の心を疲れさせ、荒(すさ)ませることの不合理性を鋭く突いた警句といえましょう。
人の心理の普遍性が的確に言及されていますね。
『孫子』が今日まで読み伝えられてきた理由が、よくわかります。