マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

永遠にやってこない機会さえも奪い去ってしまう

 ――死者の視点で何かを語ることが許されるのか。

 という問題意識が気になっています。

 もう少し踏み込んでいうと――
 死者の気持ちや考えを想像し、それを代弁しようと意図することは、生者に許されるのか――
 ということです。

 死者は、自分の気持ちや考えを(少なくとも死後に)語ったりはしません。

 にもかかわらず――
 死者が何かを語っているならば――
 それはフィクション以外の何物でもありません。

 つまり、「死者の視点で何かを語ることは許されるのか」という問題意識は、

 ――フィクションは、どこまで許されるのか。

 という問題意識の近傍にあります。

 ――どんなウソであっても、それが虚構として面白かったり意義深かったりすれば、許されるのか。

 と――

 ……

 ……

 10年前の僕なら――
 たぶん、

 ――どんなウソも許される。

 と断言したでしょうね。

 今の僕は――

 ……

 ……

 どうかな……。

 ……

 ……

 生者が、死者の気持ちや考えを――
 想像するだけなら良いけれど――
 代弁するのは間違っている気がします。

 生者が死者を代弁した時点で――
 死者は、生者によって、自分の気持ちや考えを発露する機会が、永遠に奪われるからです。

 もちろん――
 死者が自分の気持ちや考えを発露する機会は、永遠にやってきません。

 死者になるとは、そういうことです。

 が――
 その永遠にやってこない機会さえも奪い去ってしまうということが、「死者を代弁する」という行為だと思うのです。