10代の受験期の頃は、
――偏差値
とか、
――ランキング
とかいう言葉が無性に気になっていて――
そうした言葉が寝ても覚めても頭から離れなかったように思います。
それは――
もう、ほとんど滑稽といってもよいレベルだったのですが――
もちろん、当時の僕は、そうした自分のことをべつに「滑稽だ」などと思うことはなく――
むしろ、自分が「偏差値」とか「ランキング」とかで測られることに積極的な関心を抱いていました。
「偏差値」も「ランキング」も不完全な人為によって構築された評価尺度の一つに過ぎないということを――
まったく理解していなかったのですね。
そのうちに――
偏差値の算出の仕方を理解し、また、ランキングが目まぐるしく変化する実情を目の当たりにし――
(な~んだ……)
と思うようになったのですが――
その気持ちは――
安堵であると同時に、なぜか落胆でもありました。
*
人は、幾つになっても、非人為的な絶対的な評価尺度を心のどこかで絶えず求めているように思います。
もちろん――
そんな絶対的な尺度で評価などされたら、
(たまったもんじゃない)
ということは十分に理解をしながらも――
それでも――
心のどこかで、
(絶対的に評価されたい)
と――
世界の多くの地域で一神教が支持されているのは――
そうした「絶対的に評価されたい」という欲求が人の心の根底に潜んでいるからではないかという気がしてなりません。
当然ながら、一神教の「神」は、受験の「偏差値」や「ランキング」のように心もとない尺度ではないの(だそう)ですが――
人々の心の中で果たしている役割に、そう大きな違いはないように思います。