8月15日の終戦記念日は、今年で69回目を迎え――
メディアを中心に、
――戦争体験が風化している!
と警鐘をならされることが度々ですが――
(69年も経てば、そりゃ風化するだろう)
と僕は思っています。
僕は1973年の生まれで――
同年代の人たちの“終戦”に対する印象は、それほど濃厚でないということを、ずっと感じてきたのですが――
それは――
他の同年代の人たちが、僕よりも不勉強だとか意識が低いからとかではなくて――
単に僕が遅くに生まれた子供であり、僕の両親が自分自身の戦争体験というものを僅かながらにもっていたからにすぎないのですね。
例えば――
僕の父は、街の中心地がアメリカ軍の飛行機によって襲われるところを自宅の屋根から伯父と一緒にみていたといっていましたし――
僕の母は、台湾から日本列島に引き揚げる船団の1隻に乗っていて、前後の船はアメリカ軍の魚雷で沈められたといっていました。
自分たちのよく知っている街並みが焼かれたり、日本人というだけで命を狙われたりする理不尽を――
父も母も幼心に強く感じたに違いありません。
そんな両親に育てられた僕の場合、心の中の“戦争体験の風化”は、他の同年代の人たちよりも遅いでしょう。
戦後、何年か経ってから生まれ、自分自身の戦争体験をもたない両親に育てられた人たちよりは――
戦争体験が身近であったからです。
とはいえ――
そんな僕だって、自分が子育てをする側にまわれば、僕の両親が僕に伝えたような戦争体験など、とても伝えられないわけですよ。
つまり――
どのように考えても、“戦争体験の風化”は必至なのです。
戦争体験が失われることを前提にして――
物事を考えていかなくてなりません。
戦争体験のない世代が戦禍を引き起こさないためには何が必要か――あるいは、戦禍に巻き込まれないためには何が必要か――
戦争体験に頼らずに考えていかなくてはなりません。
たぶん、それは――
情緒的に考えることではなく、理知的に考えることを意味します。
「理知的に考える」とは、事実認定を前提として論理的に考えるということです。