マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「散る」について

 ここ何年か――
 甲子園の高校野球の報道で目につくようになったのが、「散る」という言葉――
 例えば、
 
 ――準々決勝で散る。
 
 といった表現です。
 
(これ、僕なら、かなり激しく躊躇するけどな~)
 と思うのです。
 
 もちろん、ここでの「散る」は、「敗退する」という意味でしょう。
 
 が――
 忘れてはならないことは――
 本来、「散る」には様々な意味があり、
 
  ○ 花や葉が茎や枝から離れ落ちる
  ○ まとまっていた物がバラバラに広がる
  ○ 人の集団が個々に離ればなれになる
  ○ 気持ちがあちらこちらに移ろっていく
 
 といった意味に混じって、
 
  ○ 人がいさぎよく戦死する
 
 といった意味があります。
 つまり、「散る」は「戦死する」の美化表現でもあるのでね。
 
 高校野球などの「準々決勝で散る」の「散る」は、おそらく「戦死する」の美化表現を比喩として当てたものでしょう。
 少なくとも、そのように受けとめる人が少なくないと思います。
 
 よって、この意味の比喩で「散る」を使うことは、
 
 ――暗黙のうちに戦争を美化している。
 
 と解釈されやしないか――
 
 そうした懸念が胸の内に差し迫ってくるものですから――
 どうしても「準々決勝で散る」のような「散る」を、僕は使えないのですね。
 
 が――
 この手の「散る」を最近はよく見かけます。
 とりわけ、甲子園の報道で――
 
(おいおい。戦死を美化するような表現を、よりによって高校生に使うなよ)
 と機嫌を損ねるような人は――
 今日では、もはや少数派なのでしょうか。