――説明をする。
という行為は――
結局は、
――より平易な言葉に置き換える。
という行為なのですが――
何をもって「より平易な言葉」とみなすかが、難しいのですね。
つまり、「より難解な言葉」に置き換えたのでは、説明の体を成しませんし――
また、「同じくらい難解な言葉」で置き換えたところで、説明の目的を達成できませんから――
ひとたび説明を試みるからには――
いかにして「より平易な言葉」を探してきて置き換えていくかが、大問題となるわけです。
ところが、この「より平易な言葉」がクセモノでして――
そういう言葉は、例えば、中学生でも知っている言葉であったり、あるいは、日常会話でもよく使われる言葉であったりするわけで――
そうした言葉を探してくるのは、比較的に容易なのです。
が――
それら言葉を組み合わせて文章にしていくのが、非常に難しい――
つまり――
中学生でもスンナリと理解できるように、あるいは、日常会話の雰囲気を損なわないように気をつけながら――
精緻な文章を練り上げていく必要があるのです。
なので――
例えば、大学のレポート課題などで、
――自然科学における実験・観測の意義を説明せよ。
とか、
――民主主義社会における基本的人権を説明せよ。
などと問われると、
(ええ~?)
と面食らってしまう――
たぶん「自然科学」や「実験・観測」や「民主主義社会」や「基本的人権」をより平易な言葉で置き換えればよいということまでは、すぐにわかるのですが、
(置き換えた“平易な言葉”を使って、どうやって、それらしい文章を作っていこう?)
と思った時に、頭が真っ白になってしまうのですね。
かくして――
大学の先生は、説明になっていない説明ばかりを読まされる羽目になるそうで――
なかには、
――○○を説明せよ。
というレポート課題は絶対に出さないと決めている先生もいるそうです。