世の中のことを学ぶやり方には少なくとも2種類があって――
それは――
1)世の中で起こる様々な事や世の中にある様々な物についての知識を蓄えていくやり方と――
2)それら事物を司る原理を理解していくやり方との2種類です。
もちろん――
1)のやり方は、世の中の事物を司る原理をいわゆる帰納的に理解しようと試みる結果であることが、ほとんどですから――
結局は、どちらのやり方も根本的には同じであるといえるのですが――
ここで見落とせないのは――
1)のやり方では、よほど「帰納的」ということを意識していない限り、ただの知識の蓄えだけで終わってしまうという弱点があることです。
1)のやり方では、世の中の事物を司る原理にまで、なかなか辿り着けない――
よって、1)のやり方は、2)のやり方とは根本的に異なっているように思えてしまう――
つまり――
世の中のことを学ぶやり方には、根本的に異なる2つのやり方があるように思えてしまうのです。
この誤解は、けっこう根強いように、僕には思えていて――
儒家思想は、どちらかというと、1)のやり方に依拠しているようであり――
老荘思想は、どちらかというと、2)のやり方に依拠しているように思えます。
ちなみに――
2)のやり方にも弱点はあって――
それは――
まずは原理を仮定せざるをえない――
という点です。
世の中の事物についての知識を広く調べていく前に――
まず虚構的ともいえる原理を仮定し――
その仮定に基づいて、世の中の事物を調べていく――
という手順にならざるをえない――
つまり――
1)のやり方も、2)のやり方も、根本的には、世の中の事物を司る原理に迫る営みなのですが――
どちらのやり方にも、危うい弱点が潜んでいる――
ということですね。