マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“昭和偃武”から70年

 昭和20年(1945年)の敗戦は――
 この国の歴史上、

 ――“昭和偃武(えんぶ)”

 とでも称されるべき転換点ではなかったか、と――
 思うことがあります。

偃武」とは、「武器を伏せ納める」くらいの意味で――
 大規模な軍事行動を慎もうとする宣言の言葉です。

 慶長20年(1615年)――
 徳川幕府は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後に、
 
 ――元和(げんな)偃武

 の言葉で、戦乱の世の終結を宣言しました。

「元和」とは、新たな年号で――
「慶長20年」は「元和元年」に改められました。

 ところで――

     *

 平成27年(2015年)の今年は――
 昭和20年(1945年)から数えて70年です。

 元和偃武の元和元年(1615年)から70年が経った頃(1685年)の世相とは、どんなものであったのか――

 ちょっと気になって調べてみました。

 すると――
 この年は、貞享2年です。

 といっても――
 たぶん、ピンとくる人はいないでしょう。

 が――
 将軍・徳川綱吉の治世の前半といえば――
 ピンとくるでしょうか。

 徳川幕府の5代将軍・綱吉は、生類憐みの令などの悪法で民を苦しめた暗君“犬公方”としての印象が強いのですが――
 今日、研究者らの間で再評価が進んでいるらしく――
 元和偃武の後も脈々と残っていた戦乱の世の気風を完全に鎮めた文治政治の推進者としての一面が指摘されています。

 とくに、その治世の前半は、かの名君と誉れ高い8代将軍・吉宗が模範としたくらいのようで――
 なかなかに徹底された文治政治が施されていたようです。

 徳川幕府の世が、元和偃武の後、200年以上にわたって大規模な軍事行動を慎んでいけたのは――
 この5代将軍・綱吉の功績と考えることもできなくはないでしょう。

 元和偃武から70年――
 大坂の陣の戦乱を知っている人々は世を去り――
 世代は、ほぼ完全に入れかわっていたに違いありません。

 この頃に徹底した文治政治が施され、元和偃武の号令が本気で継承されようとしていたことは――
 その後の時代の趨勢を決定づけた可能性があります。

“昭和偃武”から70年――
 平均寿命が延びたおかげで――
 大東亜戦争(太平洋戦争)を知っている人々も、まだ世にとどまっていて――
 世代が完全に入れかわるのには、なお相当の年月がかかりそうですが――

 あと10年もすれば――
 ほぼ完全に入れかわるでしょう。

 その頃に――
 この国で、いったい、どのような政治が施されているのか――

 大いに気にかかるところです。