恋愛を学問の対象にすると、
――野暮
といわれるのだそうですね。
心理学の専門家が述べていました。
たしかに、「恋愛の学問は野暮である」というのは、直感的にはわかるですが――
(ホントにそうか?)
と、僕は思っています。
試みに――
なぜ恋愛の学問が野暮なのかを説明しようとすると――
これが、けっこう難しいことに気づきます。
なぜ恋愛の学問は野暮なのか――
一言でいえば――
恋愛と学問とは、
――相性が悪いから――
です。
学問は、国や地域を問わず、時代や時期を問わず、それを理解しようと努める人にとって普遍的に理解されうることを主張します。
いわば最大公約数的な主張をする営み――
それが学問です。
一方――
恋愛は、個人が自身の主観を通して個別的かつ秘匿的に体験することです。
個々の恋愛は、あまりにも多種多様であり――
その最大公約数的な性質を抽出しようとすると、どうしても薄っぺらいものになってしまいます。
つまり、恋愛を学問の対象にすると――
恋愛の“最大公約数”でくくれない豊穣な性質を数多く打ち捨てて、何事かを主張せざるをえません。
それは――
喩えるならば、
――握り寿司や細巻き寿司や太巻き寿司や軍艦巻き寿司や散らし寿司に共通していることを主張する。
に相当します。
寿司の芳醇さを熟知している人にとって――
それは、たしかに野暮の極みに感じられるでしょう。
が――
そうした評価になるのは――
寿司だけをみるからであって――
他の料理にも十分に目配せをしたならば――
多少は違った結論になります。
例えば――
寿司は、刺身や釜飯と比べたらどうなのか、うどんや蕎麦と比べたらどうなのか、すき焼きや寄せ鍋と比べたらどうなのか――
あるいは――
餃子やチャーハンと比べたらどうなのか、ビザやスパゲティと比べたらどうなのか――
そういった視点も併せもつことによって――
寿司の芳醇さを過不足なく認識し、主張することができます。
恋愛を学問の対象にするときは――
恋愛以外の心の営みにも十分に配慮することが必要です。
そうすれば――
そう簡単には「野暮」といわれなくなるのではないか――
そう僕は思っています。