マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「どんなコメントか」ではなく、「誰のコメントか」

 ある程度、決められたことを――
 きっちりと決められた時間内で――
 ある程度、決められた通りに――
 コメントをすることで――
 視聴者を、

 ――あ!

 とか、

 ――ああ。

 とかと思わせるのが――
 テレビのコメンテイターの仕事であろうと思うのですが――

 その際に――
 視聴者が――ひいては、テレビの番組制作者が――最も気になるのは、

 ――どんなコメントをしているのか。

 ではなく、

 ――誰がコメントをしているのか。

 である――
 ということです。

 もっといえば――
 どんな着眼点で、どんな事実を踏まえ、どんな論理でコメントをしているのかではなくて――
 どんな容貌で、どんな経歴の持ち主が、どんな衣装をまとってコメントをしているのか――
 です。

 このように、「どんなコメントか」ではなく、「誰のコメントか」を重視するのは――
 ある作家さんによれば、

 ――日本人の悪癖

 だそうですが――
 僕は、
(必ずしも日本人に限ったことではない)
 と思っています。

(むしろ、テレビに限ったことではないか)
 と――

 映像というメディアの特徴を考えれば――
 日本だろうが、アメリカだろうが、ヨーロッパだろうが、アジアだろうが、アフリカだろうが――

 テレビのコメントに期待されるのは――
 やはり、どうしても、「どんな容貌で、どんな経歴の持ち主が、どんな衣装をまとって」のほうに集中してしまうでしょう。

 そもそも、テレビのコメントは、そんなに特徴的である必要はなく――
 むしろ、特徴的であればあるほどに、都合は悪いのですよね――公共の電波を使って放映されるものなので――

 よって――
 しぜんと当たりさわりのないコメントになってしまう――

 このことは――
 本当は、テレビに限ったことでも、ないのかもしれません。

 テレビに限らず――
 僕らは、他者のコメントに、そんなに特徴的なことは期待をしませんよね。

 むしろ、あまりに特徴的なコメントをされてしまうと、リアクションに困ってしまう――

 ――なんて返したらいいの?

 とか、

 ――黙っててもいいかな。

 とか――

 よって――
 僕らの注意は、必然的に、「どんなコメントか」ではなく、「誰のコメントか」に、向いてしまいがちになる――

 これは、もう、どうしようもないことだ、と――
 僕は思っています。