マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

それが絶筆ならば

 過去を思って書かれたと思われる文章と未来を思って書かれたと思われる文章とでは――
 読み手の気持ちが、ちょっと違ってきます。

 過去を思って書かれた文章は――
 何となく、ゆったりとした気持ちで、楽な姿勢で読み進めたいし――
 未来を思って書かれた文章は――
 何となく、居住まいを正して、きちんとした姿勢で読み進めたくなります。

 また――
 毎日の生活に余裕がなく、気ぜわしく暮らしているときは――
 過去を思って書かれた文書を読んでも、なかなか頭には入ってこず――
 毎日の生活に張り合いがなく、ぼんやり暮らしているときは――
 未来を思って書かれた文章を読んでも、なかなか心が受けつけません。

 先日――
 あの老随筆家のエッセイを読み始め――
 なかなか頭に入ってきませんでした。

 毎日の生活に余裕がなく、気ぜわしく暮らしていました。

 そして――
 そのエッセイは、過去を思って書かれた文章のように――
 僕には思えたのですね。

 結局――
 途中で読むのをやめました。

 が――
 きょうになって――
 そのエッセイが、その人の絶筆であったことを知って――
 ちょっと思いが変わりました。

(読んでみようかな)
 と思うようになったのですね。

(もしかしたら、未来を思って書かれた文章であったかもしれない)
 と思ったのです。

 絶筆は――
 ときに、たぎる思いに満ち溢れていることがあります。

 ここでいう「絶筆」とは――
 その人が生前に書いた最後の文章という意味です。

 ……

 ……

 まだ、読んでいません。

 あしたくらいには、読めるかな――