マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

なぜ死や恋だけなのか

 ――死

 や、

 ――恋

 の概念と並んで、

 ――餓

 や、

 ――滅

 の概念についても――
 きのうの『道草日記』で述べました。

            存続の本能 存続の停止
  個としてのヒト    餓       死
  種としてのヒト    恋       滅

 の4分割表もお示ししました。

 一方――
 おとといの『道草日記』では、

 ――死

 と、

 ――恋

 とは――
 “体験可能性の有無”や“体験頻度の有無”で――
 決定的に異なることを指摘しました。

 実は――
 この“体験可能性の有無”や“体験制度の有無”についていえば――
 例えば、

 ――死

 と、

 ――滅

 とは似ていますし、

 ――餓

 と、

 ――恋

 とも似ています。

 死も滅も、体験は不可能であり、頻度の高低を論じることは不自然である一方――
 餓も恋も、体験は可能であり、頻度の高低を論じることは極めて自然です。

 不思議なのは――

 これら4つの概念のうち――
 なぜ死や恋だけが、人知によって理想的かつ観念的に扱われやすいのか――
 という点です。

 先ほどの4分割表でいえば――
 なぜ右上と左下だけが理想論や観念論と相性がよいのか――なぜ左上や右下だとダメなのか――です。

            存続の本能 存続の停止
  個としてのヒト    餓       死
  種としてのヒト    恋       滅

 ……

 ……

 よくわからないのですよね。

 個の飢餓や種の絶滅も――

 人にとっては――
 それなりに抜き差しのならない概念のはずですが――

 ……

 ……

 なぜ死や恋だけなのか――