マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

野暮にならない「粋がる」の使い方

 ――「粋(いき)がる」という言葉は使い勝手が悪い。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 要するに、

 ――粋というのは、誰かの所作や態度に対して自分自身が感じとる性質であり、その“誰か”自身が感じとる粋と自分自身が感じとる粋とは、ふつうは異なるので、「粋がる」は使い勝手が悪い。

 ということです。

 

 つまり、

 ――おめぇ、なに粋がってんだよ!

 と詰ったら、

 ――てめぇにオレの粋がわかるっていうのかよ!

 と返されてオシマイです。

 さらには、

 ――オレの何に粋を感じたのか知らねぇが、そんなもんを粋に感じてるようなら、てめぇは野暮の塊よ!

 と突っ込まれるでしょう。

 

 では――

 「粋がる」は、どのように使えばよいのでしょうか。

 

 例えば、このように使えばよいでしょう。

 ――いつかは粋がってみたいものよ。

 

 反実仮想です。

 実際に粋がることはできない――自分自身が醸し出そうとする粋は、しょせんは独りよがりの粋にすぎない――そんなものは粋でも何でもない――が、そうはいっても、やはり、自分自身で納得のいく粋を醸し出してみたい――そんなことが無理なのは百も承知なのだが――

 

 そういう文脈のもとで「いつかは粋がってみたいものよ」といえば――

 その「粋がる」が野暮になることはないでしょう。

「粋がる」は使い勝手の悪い言葉

 ――粋(いき)がる

 という言葉がありますね。

 ――自分で自分のことを「粋だ」と思って振る舞う。

 くらいの意味です。

 

 ――粋は、つねに個別具体的な現れ方をするのであり、粋の普遍抽象的な現れ方を論じても意味がない。

 ということを、きのうまでの『道草日記』で述べました。

 

 この主張が正しければ、

 ――「粋がる」という言葉は、なかなかに使い勝手が悪い。

 ということになります。

 

 なぜか――

 

 例えば――

 ある人をみて、

 ――あ、粋がってるな。

 と感じたとしましょう。

 

 その人の粋は、その人に固有の現れ方をしているはずなので――

 その人が、以前にも同じように粋を醸し出したことがない限りは――

 その粋が、その人に固有の粋であるということは、決してわからないはずです。

 

 よって、

 ――あ、粋がってるな。

 と感じたとしても――

 それは的外れである可能性が原理的に高い――

 いくら、あなたが「これは、この人なりの粋に違いない」と思っても、実は、そうではなかった、ということが――

 大いにありえます。

 

 もちろん――

 その人が、自分から、

 ――今の自分の振る舞いは自分で「粋だ」と思っている。

 などと白状でもすれば、話は別ですが――

 粋を醸し出せるような人は、そんな野暮な“白状”は絶対にしませんね。

まったく個別具体的な粋の現れ方

 ――粋(いき)は、それぞれの人物に固有の現れ方をする。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 そうであるならば――

 例えば、

 ――「粋」とは、具体的には、どういう性質か。

 という問い方には、あまり意味がない――

 ということになります。

 

 つまり、

 ――「粋」とは「色気の嗜(たしな)み」である。

 といった以上に具体的な述べ方には、あまり意味がない――

 

 意味がありそうなのは――

 まったく個別具体的な粋の現れ方です。

 

 例えば、

 ――日本の江戸期、時の政権の緊縮財政の下、深川という流通経済の要所で芸者として働く女性に固有に現れる粋としては、どのような性質が予想されえたか。

 といった問いにこそ意味がある――

 ということです。

 

 こうした問いを素地にして、

 例えば、

 ――現代日本において、インターネット環境の成熟化や対抗文化の先鋭化の下、タレント活動を行う女性に現れる粋としては、どのような性質が予想されるか。

 とか、

 ――2020年代の国際社会において、日本由来の対抗文化の影響からは独立して出現し、確立されていきそうな粋としては、どのような性質が予想されるか。

 というふうに立てられる問いにこそ意味がある、と――

 僕は考えます。

粋は、それぞれの人物に固有の現れ方をする

 ――「粋(いき)」は散逸構造に擬せられる。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 もちろん――

 「粋」と「散逸構造」とは、まったく次元の異なる概念であり、「両者は同じである」と主張するつもりは毛頭ありません。

 

 が――

 もし、「粋」に散逸構造のような様相をみてとるならば、

 ――「粋」の本質を見誤るようなことがなくなるのではないか。

 とは主張できると思っています。

 

 物理的なエネルギーの流れている場所に、自然界の応答として、自発的に現れる構造が、「散逸構造」です。

 

 それと同じように――

 体力や気力のエネルギーのようなものが流れている人物に、心身の応答として、自発的に現れる性質が、「粋」であろうと思います。

 

 散逸構造の現れ方には、通り一遍の法則がないと考えられています。

 物理的なエネルギーの流れる場所には必ず固有の条件があって、その条件に合致するかたちで、散逸構造は現れます。

 それゆえに、散逸構造は、それぞれの場所に固有の現れ方をすると考えられています。

 

 粋も同じです。

 粋の現れ方には、通り一遍の法則はありません。

 体力や気力のエネルギーのようなものが流れる人物には必ず固有の条件があって、その条件に合致するかたちで、粋は現れます。

 それゆえに、粋は、それぞれの人物に固有の現れ方をするのです。

「粋」は散逸構造に擬せられる

 ――「粋(いき)」とは、体力や気力の流れに生じる泡沫(うたかた)のようなものである。

 と、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 そうであるならば――

 では、

 ――野暮

 は、どう考えればよいでしょうか。

 

 難しくはありません。

 ――体力や気力の流れに生じる泡沫

 とは反対の概念を考えればよい――

 

 つまり、

 ――「野暮」とは、体力や気力の流れがないこと

 です。

 あるいは、

 ――流れはあっても、そこに泡沫のようなものが何も生じていないこと

 といってもよい――おそらく、“流れ”の勢いが足らないのです。

 

 察しの良い方は――

 もう、おわかりでしょう。

 

 僕は「粋」を散逸構造に擬したいと思っているのです。

 

 散逸構造については、2016年8月24日の『道草日記』などで触れています。

 20世紀ベルギーの理論化学者・物理学者であったイリヤ・プリゴジンによって提唱された概念です。

 簡単にいってしまうと、

 ――エネルギーが自然界を流れる際に、その流れに対する自然界の応答として自然と発生する何らかの構造

 が、散逸構造です。

 台風や渦潮などが好例です。

 

 「粋」を散逸構造に擬することで、

 ――「粋」と「野暮」との関係性

 が、より明瞭に見えてきます。

 

 散逸構造は、物質が秩序をもって偏っている状況を指します。

 こうした偏りのある状況を、物理学・化学では、一つの纏(まと)まりとみなし、

 ――非平衡

 と呼ばれます。

 

 これに対し――

 そのような偏りがない状況――物質が無秩序に均されている状況――は、

 ――平衡系

 と呼ばれます。

 

 つまり――

 「粋」と「野暮」との関係性は、

 ――非平衡系と平衡系との関係性

 に擬せられる、と――

 僕はいいたいのです。

 

 僕は、昨今の『道草日記』で、

 ――「粋」の対義語は「野暮」であるが、両者の対立は対称的ではない。

 ということを繰り返し述べてきました。

 ここでいう「対称的ではない」というのは、

 ――非平衡系と平衡系との関係性は決して対称的ではない。

 という意味での「対称的ではない」です。

 

 例えば――

 台風と凪(なぎ)の快晴とが対称的ではないように――

 また――

 渦潮と平らかな海原とが対称的ではないように――

体力や気力の流れに生じる泡沫のようなもの

 ――粋(いき)

 が成り立つためには、体力や気力の充実が必要でしょう。

 ――色気の嗜(たしな)み

 が「粋」です。

 体力の充実は色気を研ぎ澄ませるのに必要であり、気力の充実は嗜みを練り上げるのに必要です。

 

 ここでいう「体力の充実」とは、よく食べ、よく動くことです。

 

 また――

 ここでいう「気力の充実」とは、よく感じ、よく思うことです。

 

 あえて曖昧な述べ方をするならば――

 体力や気力のエネルギーのようなものを想定し、それらエネルギーが体の中や心の中を勢いよく吹き抜けている様子――

 といってもよいでしょう。

 

 ――「粋」は色気や嗜みがもつ鮮烈さや脆弱さの具現化である。

 と、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 「粋」の鮮烈さは――

 体力や気力のエネルギーのようなものが激しく迸(ほとばし)っているところに由来していて――

 「粋」の脆弱さは――

 体力や気力のエネルギーのようなものが絶えず揺らいでいるところに由来している――

 と考えられます。

 

 流れというものは、たいていの場合は、迸って揺らいでいるのです。

 

 誤解を恐れずにいえば――

 「粋」という概念は、

 ――体力や気力の流れに生じる泡沫(うたかた)のようなもの

 ということです。

「粋」と「野暮」との対立構造からみえること

 ――「粋(いき)」には“江戸の深川”から飛び立ちうる普遍性があり、それを掴むには、「粋」と「野暮」との対立構造を探る必要がある。

 といったことを――きのうの『道草日記』で述べました。

 

 おとといの『道草日記』で述べたように、

 ――「粋」の断定性

 に対し、

 ――「野暮」の婉曲性

 があります。

 

 また――

 11月7日の『道草日記』で述べたように――

 「粋」と「野暮」とは平面的な構造をとっていて、座標の原点に「粋」の極みがあり、その原点の無限遠方に「野暮」の極みがある、ともみなせます――

 つまり、

 ――「粋」の限局性

 に対し、

 ――「野暮」の無辺性

 です。

 

 「粋」と「野暮」との対立構造は、あきらかに非対称的です。

 これは、

 ――「粋」とは「色気の嗜(たしな)み」である。

 とみれば、当然の帰結といえます――「色気」にも「嗜み」にも、さながら荒れ地に立つ白百合のような際どさがあります。

 その際どさは、一方では“断定性”を、もう一方では“限局性”を具現しえます。

 際どいがゆえに鮮烈であり、際どいがゆえに脆弱であるのです。

 

 一方、「野暮」には、そのような際どさがありません。

 「野暮」の“婉曲性”も“無辺性”も、その際どさのなさ――つまりは、ありふれたさま――が具現された結果といえます。

 

 以上をまとめると――

 「粋」とは、

 ――良い意味での「危うさ」

 であり、

 「野暮」とは、

 ――悪い意味での「安らぎ」

 であるといえそうです。

“江戸の深川”から飛び立ちうる普遍性が

 ――粋(いき)

 や、

 ――野暮

 は、日本の江戸期に成立した概念であり、日本語圏に固有の美意識とみなされている、ということを――

 10月31日の『道草日記』で述べました。

 

 「粋」や「野暮」を語る際に――

 これらの出自にこだわる向きがあります。

 

 すなわち、

 ――「粋」とは、本来、江戸の深川で人気を誇った芸者集団を評するための言葉であった。

 といったような主張です。

 例えば、

 ――鼠色は、茶色や藍色と並んで、「粋」を表象しうる色彩である。

 といった主張がなされます。

 

 この主張は、たぶん風俗史的には正しいのですが――

 「粋」の捉え方としては間違っているでしょう。

 

 少なくとも、この主張では「粋」の普遍性を説明できません――

 むしろ、「粋」の普遍性を矮小化してしまう――

 

 当時の日本は、時の政権――徳川幕府――によって派手な色彩の装飾が禁じられていました。

 芸者たちも例外ではありません。

 そこで、深川の芸者たちは鼠色を用いた――その芸者たちは“粋”に振る舞った――僕のいい方をすれば「色気を嗜(たしな)んでいた」――よって、鼠色が「粋」を表象しうるとみなされた、というにすぎません――

 「鼠色」に「粋」の普遍性は見出せません。

 

 「粋」にも「野暮」にも普遍性があると、僕は考えています。

 それら概念の成立過程が日本の江戸期の町人文化に深く根差していることは認めるにせよ、そこから飛び立ちうるだけの普遍性が――例えば、江戸の深川から現代の国際社会の隅々にまで幅広く受け入れられうるだけの普遍性が――あると考えています。

 その普遍性を発見し、記述するには、いつまでも“江戸の深川”にとどまっているわけにはいかないのです。

 

 そのためには、まず、「粋」と、その対立概念である「野暮」とが成している構造を正しく把握することが必要でしょう。

 11月7日の『道草日記』で述べて以来、僕が「粋」と「野暮」との対立構造に繰り返し言及しているのは、そうしたことによります。

「粋」の断定性

 ――「粋」がもつ嫌らしさ

 について、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 それは――

 一言でいえば、

 ――「粋」の断定性

 です。

 

 これは、

 ――「野暮」の婉曲性

 と対を成しています。

 

 きのうの『道草日記』で触れた掛け合い――

 すなわち、

 ――よぉ! お姐さん、粋だねぇ!

 ――何いってんだい。往(い)きじゃないよ、帰りだよ。

 という掛け合い――は、「粋」の断定性が、はからずも当の女性に対して牙を剥く事例です。

 

 この場合は、「よぉ! お姐さん、粋だねぇ!」と声をかけた者――おそらくは、男――が、「粋」をよくわかっていなかったのであって――

 もし、「粋」をよくわかっていたら、たとえ、どんなに「なんて粋な女性だ」と感じ入っても――

 それを当の女性に面と向かって口にはしません。

 

 心の中で、人知れず、しみじみと呟(つぶや)くか――

 後刻、当人のいないところで、誰かに向かって、

 ――あれは、粋だったねぇ。

 と、問わず語りに評するのがよいのです。

「粋」と「野暮」とは従属しあっている

 ――「野暮」の面白みは「粋」の洒脱さと根本で繋がっている。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 いいかえると、「粋」という概念の垢抜けた様子が、その対義語である「野暮」に、軽妙な謙譲の美徳をもたらしている――

 ということです。

 

 「粋」と「野暮」との構造は、おとといの『道草日記』で述べたように――直線的な構造ではないにせよ――ある種の対立構造であるといってよいのですが――

 双方が互いに多少なりとも従属しあっている点は、見落とせません。

 

 「粋」がもつ肯定的な意味合いが「野暮」に多少なりとも影響を与えていることは、すでに述べました。

 

 では――

 その逆は、どうか―― 

 例えば、「野暮」がもつ否定的な意味合いが「粋」に多少なりとも影響を与えている、ということは、あるでしょうか。

 

 (ある)

 と、僕は思っています。

 

 つまり、「野暮」という概念の垢抜けない印象が、その対義語である「粋」に、鈍重な傲慢の悪徳をもたらしている――

 ということです。

 

 例えば、

 ――よぉ! お姐さん、粋だねぇ!

 ――何いってんだい。往(い)きじゃないよ、帰りだよ。

 という掛け合いは――

 「粋」がもつ嫌らしさを暗に示しています。

 

 ここで「粋だねえ!」と評された女性が、

 ――ありがと。

 などと応じようものなら――

 もう、それは野暮というもので――

 自分が粋であるかもしれないことを即座に保留しなければ、粋であるかもしれない可能性は失われるのです。

 

 もちろん、「粋だねぇ!」と評される女性は、そう評されるだけの努力を十分に重ねているはずで、「粋だねぇ!」と評されて嬉しくないわけはないのでしょうが――

 「粋」とは、常に自覚ではなく、他覚されうる価値観ですから、自分が本当に粋かどうかは、自分では絶対にわからない――

 かといって、自分が「粋」であるかもしれない可能性を自分から否認するのも、とうてい粋ではありませんから――

 それで仕方なく、「往きじゃないよ、帰りだよ」といって、すっとぼけるしかないのです。

 

 「野暮」という概念には、いつも「粋」が陽を当てているように――

 「粋」という概念には、いつも「野暮」が陰を落としているのです。