マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

唄は歌われ、歌になる

 同じ唄でも、歌い手によって、ずいぶん違う作品に仕上がっているものである。

 言葉の切り方、リズムやテンポ、抑揚の濃淡――
 どれも微妙に違っている。

 唄は、多くの人々に共有されてこそ、真価を発揮する。

 より多く歌い手の裁量を内包する唄ほど、

 ――よい唄

 ではないか――

 逆にいえば――
 誰が歌っても同じようになってしまう唄は――
 よい唄ではない。

 以上のことを――
 とくに声高に主張するつもりは、ないのだが――

 このことに関し――
 ちょっと困ったことになったと思っている。

 僕のこの主張に沿えば――
 よい唄であれば、よい唄であるほどに――
 様々な歌い手が、様々なバリエーションをみいだしていく、ということになる。

 バリエーションが増えれば――
 当然、その中で、自分が好きなものと嫌いなものとに、分かれていく。

 つまり――
 よい唄は、相当数の嫌いなバリエーションを伴ってくる、というわけだ。

 もしも――
 唄が歌われ、歌になるのなら――
 唄は、本質ではない、ということになる。

 歌こそが本質だ、と――

 僕は、今まで唄を本質だと思っていた。
 だから、歌よりも唄を重視してきた。

 が――
 間違っていたかもしれない。

 唄ではなく――
 歌が本質か。

 唄というものは、基本的には、作り手よりも、歌い手のものなのだ――
 たぶん――

 唄が作られ、歌われる――そのときに歌の全貌が現れる。
 その歌い手が映し出す全貌である。