マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

悪徳ではなく背徳で

 いつも真面目なことばかり考えていると、頭が重くなる。

 頭が重くなると――
 例えば、書くことも話すこともつまらなくなる。

 僕の頭は、美徳と背徳とを常に交互に扱っておかないと――
 すぐにガタがくるようにできているらしい。

 これまでにも、『道草日記』の中で、しばしば、

 ――僕にとって、美徳と背徳とは車の両輪だ。

 というようなことを述べ続けてきた。
 美徳だけでは、どうにも考えが膠着し、気分が落ち込んでしまう、ということである。

 ところで――
 手元の辞書などをみると「美徳」の対義語は「悪徳」となっている――「背徳」ではない。

 なのに、なぜ、マル太は、

 ――美徳と背徳と――

 などと両者を併記しているのか。

 正直にいえば――
 まあ、単に「美徳と背徳と」というキャッチ・フレーズを練っているときに、「悪徳」という言葉が出てこなかっただけなのだが――

 それでも――
 しばらく経って、「背徳」を「悪徳」に改めようかと思案したこともあった。

 そのときに、
(やっぱ「背徳」でいいや)
 と思ったのも、事実である。

 実は、僕は「悪徳」には、さほど興味がない。
 基本的には、美徳を第一に考えている。
 悪徳の実践などは、一切、考えていない。

 が、美徳の良さを意識し続けるためには、ときに美徳からも目をそらさねばならない。
 常に美徳ばかりをみていたら、その良さが陰ってみえる。

 美徳から目をそらすことが「背徳」だ。
 背徳とは悪徳に染まることではない――悪徳にも目を向けることである。

 例えば――
 児童福祉施設でボランティアをしつつ、裏で児童ポルノを販促したりしていれば、「美徳と悪徳と」になるけれども――
 児童福祉施設でボランティアをしつつ、こっそり児童ポルノに関心をもつ程度であれば、「美徳と背徳と」になる。

 関心をもつということは、その弊害にも注意を払うということでもある。