歴史とは――
主観と主観とが、せめぎあって――
その結果、どれか一つの主観によって――たいていは、その時代の権力者の主観によって――他の主観が全て押し切られたあとで、成立していくものです。
歴史は、さも客観のように語られますが――
実際には、そこに客観はありません。
歴史家は――
主観のせめぎあいの只中に、自らの主観を挿入し、その“挿入された主観”を客観とみなした上で――
社会の事象の流れを語ります。
つまり――
歴史家によって語られている歴史というものは――
単に、各期の人物や組織の主観と主観とがせめぎあった結果、自発的に醸成されたものではなくて――
その主観のせめぎあいの只中で、後世の主観が――主には、歴史家の主観が――巧妙に挿し込まれていった結果、意図的に機織されたものである――
ということです。
このことを、僕らは決して忘れることができません。
いわゆる、
――歴史認識の問題
というのは――
歴史をたどる上では、つねに付いて回る問題なのです。
どんな歴史も――
たいていは歴史家によって語られているからです。
よって――
もしも、歴史家によって語られることなく、社会の事象の流れの中のから純粋に抽出されてくる歴史というものが、どこかに実在するのなら――
いわゆる「歴史認識の問題」は雲散霧消するでしょう。