マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

辛苦と享楽とが互換可能であるとき

 例えば――
 朝、起きて、
(あ、きょう夜、寝るまで、何もすることがない)
 と気づくとき――

 それは――
 見方によっては、最悪の辛苦であろうし――
 見方によっては、最高の享楽であろうと思うのです。

 それは、180度の違いです。

 何の違いか――

 簡単にいえば――
「何もすることがない」が毎日、続けば、最悪の辛苦でしょうし――たまにあるだけなら、最高の享楽でしょう。

 厄介なのは――
「何もすることがない」が毎日、続いている人にとっては、それが最高の享楽であるとは感じられないし――たまにあるだけの人にとっては、それが最悪の辛苦であるとは感じられない――
 ということです。

 よく考えると――
 大変に奇妙なことではあるのですが――

 ある種の辛苦や享楽は、完全に互換可能なのですね。

 なぜ互換可能なのか――

 どちらも人の主観に依存することだからです。

 その証拠に――
 人の主観から独立した辛苦や享楽では――
 そうはいきません。

 ……

 ……

 え?

 そんな辛苦や享楽が、あるのかって?

 ……

 ……

 ありますよ。

 自分の体の生理に直結した辛苦や享楽が、そうです。

 痛みとか餓えとか疲れとか――
 あるいは、食欲・性欲・睡眠欲の充足とか――

 人の体の生理には――
 その人の主観から独立している部分が確かにあります。