マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

明治政府が“国家百年の計”の教育を誤ったことの証左

 ――明治政府は“国家百年の計”の教育を誤った。

 ということを――

 12月19日の『道草日記』で述べました。

 

 その結果――

 いわゆる、

 ――統帥権干犯問題

 が生じ――

 政権が迷走を始めた、と――

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん、

 ――統帥権干犯問題

 が全てではありませんが――

 なかなかに象徴的であるので――

 ここでは、この問題のみを挙げておきたいと思います。

 

 ……

 

 ……

 

 この、

 ――統帥権干犯問題

 が日本史の表舞台に飛び出すのは昭和5年のことです。

 

 この年、イギリスのロンドンで、日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの5か国が集まって、自国の海軍の戦力――補助艦の保有量――に制限をかけるための国際会議が開かれました。

 ときの浜口雄幸内閣は、イギリスやアメリカとの協調を保ちつつ、自国の軍事費の削減を図り、海軍の最高司令部――軍令部――の反対を押し切って、軍縮条約に調印をします。

 これに反発をした海軍が、

 ――浜口雄幸内閣が海軍の反対を押し切って軍縮条約に調印をしたのは、統帥権の侵害である。

 と主張をし、倒閣運動を起こしたのです。

 

 これは、おかしな主張でした。

 

 ――統帥権

 が、天皇に固有の権限であったことは――

 12月19日の『道草日記』で述べました。

 

 よって、

 ――統帥権の侵害である!

 と、天皇が主張をするのなら――

 まあ、わかります。

 

 が――

 実際に主張をしたのは、海軍です――天皇ではありません。

 

 当時は昭和天皇でした。

 この年、29歳になっていらっしゃいました。

 

 後年のご発言などをみるかぎり――

 昭和天皇が、

 ――統帥権の侵害である!

 と軽々しくお考えになることは、まず、ありえなかったでしょう。

 

 そのことは、当時の人々には、よくわからなかったと思いますが――

 いずれにせよ――

 天皇に固有の権限について、天皇以外の者が、

 ――統帥権の侵害である!

 と発言をすることは、

 ――むしろ、天皇の発言権の侵害ではなかったか。

 といえます。

 

 こうした指摘は、揚げ足とりの類いかもしれませんが――

 

 このことを措いても――

 当時の海軍の主張は、

 ――身勝手に過ぎた。

 と、僕は感じます。

 

 政権の首脳部――内閣――が、海軍の戦力に制限をかけてでも、イギリスやアメリカと協調を保ち、軍事費の削減を行う必要がある、と判断をしたのです。

 その判断に従うのが、

 ――当たり前

 というものでした。

 

 なぜか――

 

 軍事は外交の一部であり、外交は政治の一部であり――内閣は政治をみていて、海軍は政治の一部である外交の、そのまた一部である軍事の更にそのまた一部を担っているに過ぎない――からです。

 

 このように述べると、

 ――当時の社会情勢や思想背景を踏まえずに、現代の価値基準で評価を下してはならない。

 と反駁をする向きもあるかもしれません。

 

 が――

 軍事が外交の一部であり、外交が政治の一部である――ということが、現代の価値基準に従属をしている事柄とは――

 僕には思えません。

 

 「軍事」「外交」「政治」といった言葉それ自体は、ともかくとして――

 これら言葉が担う諸概念の関係性は、現代だけでなく、昭和前期や明治期、江戸期、織豊期のいずれにも通用をしうる当たり前の知見であったろうと思います。

 

 この当たり前のことが――

 当時の海軍の上層部には、わからなかったのでしょう。

 

 あるいは――

 わかっていても、わからないふりをしていて――

 そのことを、特段、

 ――恥ずかしい

 とも感じなかった――

 

 ……

 

 ……

 

 

 当時の海軍の上層部は――

 明治生まれが主です。

 

 明治政府の下で育った世代です。

 

 海軍という大組織の舵取りを任されていた人たちですから――

 頭脳は明晰であったと考えられます。

 

 知識や経験も豊富であったでしょう。

 

 が――

 何かが足りなかった――

 

 ……

 

 ……

 

 おそらく――

 それは、

 ――教養

 です。

 

 統帥権干犯問題が日本史の表舞台に飛び出した昭和5年当時――

 海軍の最高司令部の責任者――軍令部長――であった人物は、海軍の将校養成機関――海軍兵学校――の校長であったときに、入学式で、こう訓示をしたと伝わっています。

 

 ――当校は戦争に勝てばよいので、哲学も宗教も思想も必要ない。

 

 実学の重要性を説きたかったものと想像をしますが――

 教養のある人なら、もう少し違ったいいかたをしたでしょう。

徳川幕府による教育の施策の何がよかったのか

 ――徳川幕府は“国家百年の計”の教育を誤らなかった。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 では――

 徳川幕府による教育の施策の何がよかったのでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 この問いに答えるのは、とても難しいのですが――

 

 それでも――

 思い切って答えるならば――

 

 ……

 

 ……

 

 ――中央集権的な束縛をかけず、地方分権的な多様性を許したこと――

 であろうと思います。

 

 教育における、

 ――中央集権的な束縛

 というのは――

 例えば、中国の歴代皇朝が採った科挙――高級官吏採用試験――の制度に象徴をされます。

 

 ――束縛

 というのは、具体的には、

 ――教育の評価基準

 ですね。

 

 その束縛の様相は――

 例えば、明治政府が設置をした陸軍士官学校海軍兵学校――将校の養成を担う教育機関――の入学試験の制度にも、おそらくは、みてとれるでしょう。

 

 このような、

 ――中央集権的な束縛

 は、

 ――知の多様性

 を奪います。

 

 試験の公平性を保つために、できるだけ同様の評価基準が全ての受験生に一律に適用をされるのですから――

 多様性が失われるのは、当然です。

 

 ――知の多様性

 が奪われた中で、いくら良質の教育を志しても――

 均質な人材が生まれるばかりです。

 

 それでは、

 ――どんな問題が起こっても適切に対応ができるように、今から人材の育成の仕組みを整えておくこと

 という、

 ――国家百年の計

 の要諦には適わないのですね。

 

 徳川幕府は、中国の歴代皇朝と違って、地方分権型の国家でした――日本列島に散らばる大小300くらいから成る小国家(藩)の連合体であったのです。

 よって、教育の施策に、

 ――中央集権的な束縛

 をかけたくても、不可能であったといえます。 

 それが、

 ――国家百年の計

 の視点では幸いであったのですね。

 

 徳川幕府が政権を手放した後――

 明治政府が政権を握って、西欧列強のような中央集権的な国家を目指したわけですが――

 教育の施策についても中央集権的であろうとしたことは、余計でした。

 

 西欧列強――例えば、イギリス――は、教育に関しては、実は、それほど中央集権的ではありませんでした――今でも、そうです。

 地域によって、あるいは機関が公立か私立かによって、教育の理念や実践が多少なりとも違うことが、当たり前であったのです。

 

 ……

 

 ……

 

 すぐにおわかりのように――

 

 現代日本も、明治政府が抱えていたのと同じ通弊を抱えています。

 

 地域によらない一律の指導要領や公私によらない画一の学校組織は、

 ――中央集権的な束縛

 の具現であるといってよいでしょう。

 

 何よりも――

 現行の公務員採用試験は、かつての中国の科挙と似たような弱点を抱えているように、僕には思えます。

 

 もし、

 ――国家百年の計

 を真剣に考えるなら――

 このことを深刻な問題ととらえ、早急に手を付ける必要があるのですが――

 

 さて――

 どこまで理解が得られるでしょうか。

 

 ――将来のアヘン戦争や太平洋戦争を避けるには、現行の公務員採用試験を見直す必要があるんです!

 と力説をしても――

 たぶん、すぐには、わかってもらえないでしょう。

徳川幕府が“国家百年の計”の教育を誤らなかったことの証左

 いわゆる、

 ――国家百年の計

 の本質である教育の施策について、

 ――明治政府は誤ったが、徳川幕府は誤らなかった。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 こう述べると――

 種々の異論が出てくるでしょう。

 

 もちろん、

 ――明治政府は誤ったが、徳川幕府は誤らなかった。

 というのは極論であり、結果論であり――あくまでも、総体的な傾向を述べたものにすぎないのであって――

 いくらでも例外は挙げられます。

 

 とはいえ――

 

 日本列島の人々が、20世紀中盤に、

 ――太平洋戦争

 という苦渋を舐めるに至っていて――

 その時点から80年ほど前に明治政府が政権を担い、そこから更に260年ほど前に徳川幕府が政権を担っている――

 という歴史を素直に受け止めるならば――

 そうした極論に行きつくのは当然といえます。

 

 最大の違いは――

 明治政府の首脳部が、統帥権干犯問題などの制度上の欠陥に苦しんだ挙句、最終的には、自分たちの面子に拘るあまり、西欧列強に対し、

 ――勝てない戦い

 を挑んで挫折を味わったのに対し――

 徳川幕府の首脳部は、当初から、西欧列強を侮ることなく、決して、

 ――勝てない戦い

 を挑まず、最終的には、自分たちの面子に拘らず、むしろ政権を手放すことで、明治政府の発足を間接的に助けているところです。

 

 ――明治維新の最大の功労者は誰か。

 という話があります。

 

 坂本龍馬か――

 西郷隆盛か――

 大久保利通か――

 木戸孝允か――

 伊藤博文か――

 勝海舟か――

 

 たしかに――

 彼らが明治維新の功労者であることは誰もが認めるところですが――

 最大の功労者は――

 やはり、何といっても、

 ――徳川慶喜

 でしょう。

 

 徳川慶喜が、徳川幕府の最後の将軍として、あっさり政権を手放していなければ――つまり、武士の恥辱とか後世の汚名とかを恐れ、ひたすら政権の維持に拘っていれば――

 日本列島は、戦国期の内戦状態に逆戻りをし、明治政府も容易には発足をしえなかったはずです。

 

 そうなれば――

 日本列島もアヘン戦争の事後処理に苦しむ中国大陸と何ら変わらない状況になっていたでしょう。

 

 徳川慶喜のような、国益を第一に考え、自身の恥辱や汚名には鈍感となれる人物が、徳川幕府の末期に最高指導者の地位にあったことは、日本列島の人々にとっては、まことに幸甚でした。

 

 そして――

 忘れてはならないことは――

 そんな人物を、政権の末期に、あえて最高指導者に押し上げた徳川幕府の組織としての柔軟性です。

 

 もちろん――

 徳川幕府の首脳部には、徳川慶喜の思考の闊達さについていけない人物も少なからずいたでしょう。

 

 が――

 ついていける人物も少なからずいた――例えば、勝海舟のような人物がいた――ということが、見逃せないのです。

 

 いくら徳川慶喜が英明であっても、一人では何もできませんでした。

 徳川慶喜を支えた人物が、徳川幕府の首脳部に一定数いたこと――これこそ、徳川幕府が“国家百年の計”の教育を誤らなかったことの証左といえます。

“国家百年の計”の教育――明治政府は誤り、徳川幕府は誤らなかった

 ――国家百年の計

 の「百年」は、

 ――人の寿命

 である――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 そして――

 そもそも、

 ――国家百年の計

 というのは、

 ――教育のこと

 に他ならず、

 ――自分の生涯が終わる頃のことを考えるくらいなら、目の前の教育をきちんと行うのがよい。

 という主旨であることも、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 要するに、

 ――100年後、200年後、300年後に、どんな問題が発生をしても適切に対応ができるように、今から人材の育成の仕組みを整えておくこと

 それが、

 ――国家百年の計

 なのです。

 決して、国家の百年先の状況を見通すことが、

 ――国家百年の計

 ではないのですね。

 

 よって――

 理屈で考えれば、

 ――“国家百年の計”の教育がきちんと実践をされてさえいれば、100年先であっても300年先であっても1000年先であっても、国家の隆盛は衰えないはずである。

 ということになります。

 

 徳川幕府が“国家百年の計”の教育を概して確実に行っていたことは、ほぼ疑いようがありません。

 それゆえに、政権が約260年の長きにわたって続いたのです。

 

 一方、明治政府は“国家百年の計”の教育には明らかに失敗をしたといってよいでしょう。

 それゆえに、政権は「太平洋戦争」の苦汁をなめ、約80年で潰えました。

 

 ――日本の近代史は大正期から昭和期にかけて急におかしくなった。

 とは、しばしば指摘をされるところです。

 その象徴として挙げられるのが、いわゆる、

 ――統帥権干犯問題

 です。

 

 ――統帥権干犯問題

 については、2017年9月1日の『道草日記』で軽く触れました。

 

 この問題は――

 簡単にいってしまうと――

 明治政府が敷いた制度の欠陥に由来をしています。

 

 政治の一部である外交の、そのまた一部である軍事の都合が、政治の全体の都合に優先をされうる制度になっていたのですね。

 

 ――統帥権

 というのは、明治政府の最高権力者である天皇が握っているとされた権限のことで――

 軍事に関する明治政府の最終決定権を指します。

 

 が――

 この統帥権天皇が実際に用いることは稀でした――天皇は、統帥権に限らず、外交・内政の全般に関わる権限の全てを、少なくとも実質的には、政権の首脳部に委ねていたのです。

 

 よって――

 政権の首脳部の長――つまり、政権の首班――が統帥権を握る制度になっていれば、何の問題もなかったのですが――

 そのような制度になっていなかったのですね。

 

 そして――

 その制度の欠陥が広く世間に知られて警戒をされるということも、ありませんでした。

 

 こうして――

 政治の一部にすぎない外交の、そのまた一部に過ぎない軍事に与っている者たちが、政治の全体をみることなく、杜撰な判断を下し、勝手な行動を起こしたことで――

 明治政府は「太平洋戦争」の苦汁をなめ、滅びるに至ったのです。

 

 もちろん、ここでいう「明治政府」とは――きのうの『道草日記』で述べた通り――明治期の政権を指すだけでなく、大正期や昭和前期の政権の全てを指す言葉です。

 

 ……

 

 ……

 

 繰り返します。

 

 ――統帥権干犯問題

 が、なぜ発生をしたのか――

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 明治政府が“国家百年の計”の教育を誤ったからです。

 

 では――

 なぜ、明治政府が10~30年で潰えることなく、約80年も続いたのか――

 

 それは――

 徳川幕府が“国家百年の計”の教育を誤らなかったからです。

 

 明治政府の創成期を支え、引っ張った政治家や軍人たちは、明治政府による“国家百年の計”の教育を受けていたのではなく、徳川幕府による“国家百年の計”の教育を受けていたことを――

 僕らは常に弁えておく必要があります。

“国家百年の計”は存在をしない

 17世紀序盤の日本列島に生じた徳川幕府は――

 キリスト教の禁止と鎖国の徹底に踏み切ったことで、その後、日本列島の人々に300年近い泰平の世をもたらしました。

 

 これは、徳川幕府が、

 ――国家百年の計

 を誤らなかったから――

 と、いえるでしょう。

 

 一方――

 19世紀終盤に生じた明治政府は、

 ――国家百年の計

 を誤り――

 20世紀中盤で日本列島の人々に「太平洋戦争」という名の挫折をもたらします。

 

 この挫折の責任は、もちろん、

 ――明治政府が第一に負うべきである。

 と、いえますが――

 徳川幕府に全く責任がなかったかといえば――

 そうではありません。

 

 明治政府が「太平洋戦争」の苦汁をなめるに至ったのは、徳川幕府が300年先のことを考えなかったがゆえである――

 と糺すこともできるのです。

 

 ここでいう「明治政府」とは、日本列島における明治期の政権だけを指すのではなく――

 その後に続く大正期や昭和前期の政権も含めた、いわゆる、

 ――戦前

 の政権の全てを指します。

 

 とはいえ――

 

 ――徳川幕府が300年先のことを考えなかったのは人情としては自然である。

 ということは――

 きのうの『道草日記』で述べた通りです。

 

 人は、100年先のことを考えるのが精一杯であり、300年先のことを考えるのは無理なのです。

 

 つまり、

 ――国家百年の計

 というのは、

 ――人の知性の限界

 の具体例である――

 ということです。

 

 少なくとも――

 17世紀序盤の徳川幕府が、20世紀中盤の「太平洋戦争」の苦汁を避けようと思ったなら、

 ――国家三百年の計

 が必要でしたが――

 それは、

 ――人の知性の限界を超えていた。

 ということです。

 

 ここで――

 1つ疑問に思えることに気づきます。

 

 それは、

 ――「国家百年の計」の「百年」は、なぜ「百年」なのか。

 という疑問です。

 

 つまり――

 なぜ100年で区切られたのか――なぜ200年や300年では区切られなかったのか――

 ということですね。

 

 ……

 

 ……

 

 その答えは、

 ――国家百年の計

 の出自を探ることでみえてきます。

 

 ――国家百年の計

 は、中国・春秋時代の政治家、

 ――管(かん)仲(ちゅう)

 の見解に端を発していると考えられます。

 

 管仲は、紀元前の中国大陸の一部――黄河流域――に興った斉という国の宰相を務めた政治家で、自国を隆盛に導き、自国に黄河流域の覇権をもたらした、と――

 考えられています。

 

 その管仲が、君主から、

 ――国の隆盛を保つには、どうすればよいか。

 と下問をされて答えたとされるのが――

 次の見解です

 

 ――1年後のことを考えても種を埋めるには及ばず、10年後のことを考えても木を植えるには及ばず、生涯を終える頃のことを考えても人を育てるには及びません。

 

 この「生涯を終える頃」というのは、当時の人々の寿命を考えると、おそらくは「30~70年後」の意味であったはずですが――

 近代以降、人々の寿命が延びたことで、「100年後」に読み替えられ、

 ――100年後のことを考えても人を育てるには及ばない。

 になったと考えられます。

 

 つまり、

 ――国家百年の計

 というのは、元来は、

 ――100年後のことをいくら考えても仕方がないから、とにかく教育をしっかりと行うのがよい。

 という意味であったのですね。

 

 ――国家百年の計

 の中身は――

 実は何一つ存在をしなかったのです。

 

 もちろん、

 ――国家三百年の計

 も同様です。

徳川幕府は、なぜ本格的な海洋国家を目指さなかったのか

 ――16世紀終盤の日本列島の豊臣政権は、皇朝・明のような大陸国家を目指すのではなく、ポルトガルやスペインのような本格的な海洋国家を目指すのがよかった。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 豊臣政権による朝鮮出兵は、その目的が明の都へ攻め入ることであったことから、大陸国家を目指した行動と考えられるために――

 仮に、豊臣政権が目論見通りに明の都を攻め落としたところで――

 その後の東アジアの歴史は大して違わなかったであろう――

 ということも述べました。

 

 せいぜい、皇朝・清の代わりに豊臣政権がイギリスからアヘン戦争を仕かけられることになった――くらいの違いでしょう。

 

 現実の豊臣政権は、朝鮮出兵の頓挫の後、急速に力を失います。

 政権を引き継いだのは、徳川幕府です。

 

 徳川幕府は、大陸国家はもちろん、本格的な海洋国家も目指しませんでした。

 いわゆる鎖国を始めます。

 

 徳川幕府は、なぜ本格的な海洋国家を目指さなかったのか――

 

 理由は、明らかです。

 

 キリスト教です。

 

 覇権国家として世界に君臨をしようと狙っていたポルトガルやスペインは、キリスト教の流布を先触れとする侵略の方法を採っていました。

 侵略の対象に定めた国家――植民地候補の国家――の支配者階層にキリスト教の信徒を増やすことで、侵略を容易かつ静謐に進めようとしたのです。

 

 この方法は実に巧妙でした。

 少なくとも表向きは宗教という民心の救済を掲げることから、侵略を進める側も進められる側も、自分たちのしていることやされていることが侵略であると強く意識をすることが難しかったのです。

 

 豊臣政権も徳川幕府も――

 その宗教を隠れ蓑にした侵略行為に気づくのが遅れました。

 

 よって、後手に回らずをえず――

 結局は、キリスト教を禁じて国交を閉ざすという消極的な対応に徹さざるを得なかったのです。

 

 300年後の未来を考えたら――

 もっと積極的な対応を採るのがよかったのです。

 

 キリスト教を禁じず、国交を閉ざさず、むしろ、本格的な海洋国家を目指せばよかった――

 

 徳川幕府は、その気になれば、十分に目指せたはずです。

 

 が――

 そうなれば、日本列島の人々は、周辺の制海権だけでなく、遠方の制海権をも争って西欧列強と深刻な軍事衝突を繰り返したことでしょう。

 

 それだけでなくて――

 日本列島の支配者階層の一部にキリスト教が浸透をして、日本列島で宗教戦争が始まっていた可能性があります。

 

 キリスト教を奉じる諸大名と徳川幕府との間で、血を血で洗う内戦が頻発をしたことでしょう。

 現実の徳川幕府がもたらした300年近くの泰平の世は、おそらく30年と続かなかったことでしょう。

 

 戦乱の世への逆戻りを嫌って――

 徳川幕府キリスト教の禁止と鎖国の徹底とに踏み切ったと考えられます。

 

 この発想は――

 300年先の東アジアの繁栄や安泰のことを考えたら――

 間違いでした。

 

 が――

 当時の人々にとっては、目先の100年のほうが重要であったのです。

 

 それは人情です。

 

 ――300年先のことは、300年先の連中にやってもらう。

 ということです。

 

 が――

 残酷なことに、

 ――300年後に慌てて対処をしても遅かった。

 というのが、アヘン戦争の顛末でした。

 

 この辺りに、人の知性の限界があるといえそうです。

豊臣政権は本格的な海洋国家を目指せばよかった

 ――16世紀終盤の日本列島に生じた豊臣政権は、アヘン戦争のような惨禍を東アジアに招かないようにするために、朝鮮出兵を試みたと考えられるが、それは、まったく功を奏しなかった。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 では――

 豊臣政権は、どうすればよかったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 本格的な、

 ――海洋国家

 を目指せばよかった、と――

 僕は考えます。

 

 ここでいう、

 ――海洋国家

 とは――

 たんに、

 ――国土が海で囲まれている国家

 という意味ではなく――

 国土が海に囲まれていることを積極的に活かして外交や通商を幅広く営んでいく国家のことです。

 

 要するに――

 西欧の大航海時代以降――

 ポルトガルやスペイン、オランダ、イギリスが実践をした国家像のことです。

 

 ポイントは、

 ――大陸国家(非海洋国家)

 との区別化にあります。

 

 例えば、皇朝・明や清は大陸国家でした。

 

 本格的な海洋国家を目指すということは――

 これら大陸国家とは全く別種の国家像を追求するということであり、その追求の姿勢を自他ともに認めるような情勢を作り出す、ということです。

 

 現実の豊臣政権は、海に囲まれた日本列島にありながら、なぜか大陸国家を目指しました。

 海洋国家を目指していたのなら、明の都を本気で目指したりはしないはずです。

 現実の豊臣政権は日本列島の特長を活かさなかった――活かせなかった――のです。 

 朝鮮出兵が成功をしなかったことは、理の当然でした。

 

 海洋国家は、遠方の海域でも積極的な外交や通商を繰り広げます。

 その、

 ――外交

 には、軍事が含まれます。

 

 よって――

 豊臣政権が本格的な海洋国家を目指していたなら――

 日本列島の歴史は、さらにキナ臭いものとなったでしょう。

 

 徳川幕府がもたらした300年近くの泰平の世は訪れず――

 日本列島の内外で騒乱の絶えない情勢が続いたはずです。

 

 中国大陸や朝鮮半島との衝突は、苛烈を極めたかもしれません。

 

 が、同時に――

 オランダやイギリスがそうであったように――

 世界の各地へ進出を果たしたことでしょう。

 

 豊臣政権は強力な軍事国家でした。

 当時、朝鮮半島に延べ30万人以上の軍を派遣しています。

 

 これは陸軍です。

 

 陸軍ではなく――

 強力な海軍を作り上げ――

 その武力を活かし、日本列島の周辺はもちろんのこと、遠方の制海権をも握って、ひいてはインド、アフリカ、ヨーロッパ、南北アメリカなどにも通商の拠点を作る――

 

 そうなっていれば――

 19世紀中盤の東アジアで、アヘン戦争のような惨禍が起こることは、まず、なかったはずです。

 

 ただし――

 世界の各地で、同じ海洋国家を目指す西欧列強と、深刻な軍事衝突を繰り返していたでしょう。

 

 それは、明らかに血塗られた歴史ではあります。

 

 が――

 西欧列強と深刻な軍事衝突を繰り返すことで――

 西欧列強の文物を継続的に取り入れることもできたはずです。

 

 取り入れるだけでなく――

 日本列島で、世界に先駆け、新たな文物が創り出されていたかもしれません。

 

 少なくとも――

 東アジアが西欧の情勢から完全に取り残されるようなことには、決してならなかったでしょう。

豊臣政権は方法を間違えた

 19世紀以降の東アジアにおいて、アヘン戦争も太平洋戦争も起きないようにするには、どうすればよかったか――

 との問いへの答えは、

 ――アヘン戦争が起こらないようにすればよかった。

 である、ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 正確には、

 ――19世紀中盤にアヘン戦争が起こらなければ、20世紀中盤に太平洋戦争は起こらなかった。

 との前提を示しました。

 

 太平洋戦争が起こらなかったのであれば――

 当然ながら――

 その前哨戦である日中戦争も起こらず、日露戦争日清戦争も起こらなかった可能性があります。

 

 では――

 その分、19世紀終盤以降の東アジアは、すこぶる平和になっていたかというと――

 たぶん、そうではなくて――

 

 悲しいことに――

 もっと違った形で、戦禍の絶えない歴史になっていたでしょう。

 

 日清戦争日露戦争日中戦争よりも悲惨な戦争が、もっと頻繁に起こっていたかもしれない――

 ということです。

 

 それは、ともかくとして――

 もし、19世紀中盤にアヘン戦争が起こらなければ――

 それ以降の東アジアの歴史は、現代の僕らが知っているような展開には決してならなかったであろうことは、ほぼ間違いないと思います。

 

 よって――

 アヘン戦争が起こらないようにするには、どうすればよかったか、という問いは――

 19世紀序盤以前の東アジアの歴史を顧みる上では決定的に重要である――

 といえるでしょう。

 

 ここで再び――

 16世紀終盤の日本列島に着目をします。

 

 そこで生じた豊臣政権に、どうしても関心が向かうのです。

 

 西欧で、いわゆる大航海時代が始まって以降――

 東アジアにおいて――

 その西欧列強の野心――覇権国家として世界に君臨をしようとする野心――に、最初に気づき、行動に移したのは――

 おそらくは、豊臣政権です。

 

 その「行動」というのが、

 ――朝鮮出兵

 なのですね。

 

 豊臣政権による朝鮮出兵の目的が、

 ――西欧列強による植民地化の予防

 にあったであろうことは――

 2019年9月14日の『道草日記』や2020年10月10日の『道草日記』で述べた通りです。

 

 が――

 この行動は、まったくといってよいほどに、功を奏しませんでした。

 

 豊臣政権は方法を間違えたのです。

 

 あの頃に、日本列島から朝鮮出兵を行い、朝鮮半島から“満州地域”を通って中国大陸へ押しかけたところで――

 アヘン戦争を防ぐことは到底できなかったでしょう。

 

 仮に、豊臣政権が皇朝・清に代わって中国大陸を傘下に収めることができたとしても――

 皇朝・清が、そうであったように――

 豊臣政権もまた、中華思想華夷思想)にドップリ漬かってしまった可能性が高いのです。

 

 逆に――

 もし、中華思想にドップリ浸かってしまえなければ――

 豊臣政権が中国大陸を長らく傘下に収めることは、決してできなかったに違いありません。

 

 つまり――

 仮に、豊臣政権が首尾よく皇朝・清に取って代わることができたとしても――

 豊臣政権は皇朝・清と同じ末路を辿ったに違いないのです。

 

 そして――

 アヘン戦争を防ぐこともできなかった――

 

 つまり、

 ――中国大陸が西欧列強によって傘下に収められてしまう前に、自分たちが傘下に収めてしまおう!

 という豊臣政権の発想は、まったく有効ではなかったといえます。

 

 では――

 豊臣政権は、どうすればよかったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 簡単です。

 

 朝鮮出兵とは全く違った方法を選べばよかったのです。

 

 この続きは、あす――

アヘン戦争が起きなければ、太平洋戦争は起きなかった

 中国大陸の人々にとっての「アヘン戦争」という名の挫折と――

 日本列島の人々にとっての「太平洋戦争」という名の挫折と――

 それらの間に定量的な違いはあっても定性的な違いはない、ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 簡単にいえば――

 西欧で大航海時代の幕が開き、ポルトガルやスペインが覇権国家として世界に君臨をしようと試み始めていた事実に気づくのが遅れ、巧く対応をすることができなかった結果――

 中国大陸では19世紀中盤にアヘン戦争が起こり――

 日本列島では20世紀中盤に太平洋戦争が起こった――

 ということです。

 

 それらの挫折は21世紀序盤の現代でも続いていて――

 現在、世界に君臨をしているのは、20世紀中盤にイギリスから覇権を譲られたアメリカであり――

 そのアメリカの覇権を認めた上で、中国も日本も、自国の内政や外交の基本方針を決めている――

 という現実があります。

 

 この現実を――

 僕は、否定的に捉えるつもりはありません。

 

 肯定的に捉えるつもりもなくて――

 ただ、歴史の流れの一環として受け止め、受け入れるのがよい、と思っています。

 

 が――

 どうせ、この現実を受け止め、受け入れるのならば――

 アヘン戦争や太平洋戦争に象徴をされる戦禍・災厄は、あるよりは、ないほうがよかった――

 と思うのです。

 

 では――

 アヘン戦争や太平洋戦争が起こらないようにするには、どうすればよかったか――

 

 ……

 

 ……

 

 ここで1つの前提を設けます。

 それは、

 ――19世紀の中盤にアヘン戦争が起こらなければ、20世紀の中盤に太平洋戦争は起こらなかった。

 という前提です。

 

 アヘン戦争が起こり、中国大陸の人々が深く大きな挫折を経験し始めたのを目の当たりにしたことで――

 日本列島の人々は、いわゆる、

 ――脱亜入欧

 に舵を切りました。

 

 ――脱亜入欧

 とは、

 ――中国大陸の人々を何となく盟主と仰ぐ東アジアの共同体からは離脱をし、西欧列強と同じように覇権国家として世界に君臨をすることを追い求め始める。

 という思想ということができます。

 

 ところが――

 覇権国家を窺う準備が全く調っていなかったにもかかわらず――

 当時の覇権国家であったイギリスや、その次に覇権国家となったアメリカに対し、無謀にも戦いを挑んでしまった――

 それが、日本列島の人々にとっての挫折「太平洋戦争」であったのです。

 

 よって――

 もし、19世紀中盤に中国大陸でアヘン戦争が起こっていなければ――

 その後の東アジアの不幸な悲惨な紛争が起きなかったとは口が裂けてもいえませんが――

 少なくとも20世紀中盤に日本列島で太平洋戦争が起こることはなかったでしょう。

 

 19世紀終盤以降の東アジアの歴史は、全く違った展開になっていたはずです。

19世紀のアヘン戦争、20世紀の太平洋戦争

 中国大陸の人々が、18世紀から19世紀にかけて、アヘンの売り込みという敵対的進出に曝された結果、19世紀中盤にアヘン戦争という挫折を経験し――

 日本列島の人々が、16世紀から17世紀にかけて、キリスト教の流布という敵対的進出に曝された結果、20世紀中盤に太平洋戦争という挫折を経験した――

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 この対比は一見、突拍子もないのですが――

 それぞれの“挫折”が、21世紀の序盤である現代においても、まだ続いていることを考えれば――

 それほど奇異には感じられません。

 

 要するに――

 中国大陸の人々の「アヘン戦争」という名の“挫折”は、19世紀中盤から現代までの200年弱にわたって続いていて――

 日本列島の人々の「太平洋戦争」という名の“挫折”は、20世紀中盤から現代までの100年弱にわたって続いている――

 というところに、この対比の本質がある――

 ということです。

 

 つまり――

 今のところ、中国大陸の人々の“挫折”は、日本列島の人々の“挫折”よりも、

 ――「深くて長い」といえそうだ。

 ということです。

 

 ただし――

 繰り返しますが――

 その差は、

 (五十歩百歩である)

 と、僕は思います。

 

 ――その対比の本質は、定量にあって、定性にはない。

 ということです。

 

 まあ――

 この点については、異論もあるでしょう。

 

 今は、措きます。

 

 が――

 中国大陸の人々や日本列島の人々が、現代においても“挫折”の只中にある、ということについては、異論は少ない、と――

 僕は感じます。

 

 中国大陸の人々についていえば、今日も、いわゆる香港問題で揺れていますよね。

 この問題は、簡単にいってしまえば、香港で根付いていた民主主義的な思想や慣習が、中国大陸の本土の思想や慣習と相容れないことに端を発する問題です。

 この香港が中国から割譲をされた理由は、アヘン戦争の結果なのです。

 

 一方――

 日本列島の人々についていえば、今日も、いわゆる基地問題で揺れていますよね。

 この問題は、簡単にいってしまえば、外国の軍隊が日本列島へ侵入をし、その軍隊が長く駐留をするのに必要な軍事基地が作られたことに端を発する問題です。

 その外国の軍隊が侵入をしてきた理由は、太平洋戦争の結果なのです。

 

 もちろん――

 中国大陸の人々にとって、アヘン戦争から今日に至るまで、実に様々なことがありましたし――

 日本列島の人々にとって、太平洋戦争から今日に至るまで、実に様々なことがありました。

 

 それらのことを1つひとつ論じていけば――

 さらに様々なことがみえてくるでしょう。

 

 が――

 少なくとも東アジアにおける直近の1000年ほどの歴史をみれば――

 それらのことは、どれも些細な曲折であるといってよいのではないか――

 

 そう思うのです。