マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

「攻め込むわけがない」と、なぜいえる?

 2022年2月中旬――

 ロシア政府がウクライナ侵略を始める直前――

 

 ロシア政府の最高指導者は、

 ――北大西洋条約機構の軍がロシアへ攻め込んでくる。

 という懸念を切実に抱いていたように感じられた。

 

 それを――

 北大西洋条約機構の加盟国および、それら加盟国の同盟国で暮らす人々の多くは、

 ――攻め込むわけがない。

 と笑い――

 取り合わなかった。

 

 実際に――

 北大西洋条約機構の側では――

 攻め込む気は微塵もなかったはずだ。

 

 が――

 あの時――

 ロシア政府の最高指導者の脳裏に、13世紀前半のウラジーミル・スーズダリ大公国の不名誉が去来をしていれば――

 笑って取り合わなかったのは、不適切であった。

 

 ――「攻め込むわけがない」と、なぜいえる? 現に、13世紀前半、草原の者どもは攻め込んで来たではないか。

 

 ……

 

 ……

 

 侵略をされた方は、いつまでも覚えている。

 

 その遺恨や悔恨は――

 800 年では消えぬ。

 

 ……

 

 ……

 

 あの時――

 ロシア政府の最高指導者の脳裏に、13世紀前半のウラジーミル・スーズダリ大公国の不名誉が去来をしていた可能性を――

 北大西洋条約機構の加盟国および、それら加盟国の同盟国で暮らす人々は、真剣に案じるのが良かった。

 『随に――』

ウラジーミル・スーズダリ大公国の不名誉

 ロシアと向き合う時は――

 以下の2つのことを踏まえる必要がある。

 

 ――若い歴史の国である。

 ――歪な構造の国である。

 

 もう1つ――

 踏まえておくのがよいことがある。

 

 それは、

 ――名誉挽回の国である。

 ということだ。

 

 ロシアの祖であるモスクワ公国は――

 旧ルーシの分国であったウラジーミル・スーズダリ大公国の、そのまた分国であった。

 

 ウラジーミル・スーズダリ大公国はモスクワ公国の本国筋に当たる。

 

 そのウラジーミル・スーズダリ大公国は――

 モスクワ公国が産声を上げる半世紀ほど前に、

 ――草原の帝国

 モンゴルの侵略を受けていた。

 

 その侵略をウラジーミル・スーズダリ大公国は跳ね返せず――

 戦争に敗れ、征服をされ――

 以後、

 ――タタールの軛(くびき)

 の時代が始まったのだが――

 

 問題は――

 その戦いの敗れ方であった。

 

 その帝国の軍の前に――

 ほとんど抵抗らしい抵抗ができぬままに壊滅をした。

 

 ――その帝国の軍

 とは――

 他ならぬモンゴル軍である。

 

 モンゴル軍は――

 ほぼ全てが騎兵で構成をされ――

 分散と集結とを自在に繰り返し、敵を各個撃破にしたといわれる。

 

 野戦においては無類の強さを誇った。

 

 弱点は攻城にあったが――

 

 それを補うために――

 投石器や火薬兵器などの新技術を積極的に取り入れていて――

 既に、中国大陸の金朝や中央アジアのホラズム・シャー朝などで十分な実戦経験を積んでいた。

 

 当時のウラジーミル・スーズダリ大公国は――

 金朝やホラズム・シャー朝と比べれば発展途上国といえた。

 

 モンゴル軍にとっては容易な攻城であった。

 

 時のウラジーミル・スーズダリ大公国の君主ユーリー2世は――

 おそらくはモンゴル軍の精強性や新奇性をよく知らぬままに、不用意に野戦を仕掛け、惨敗を喫した。

 

 されば、と――

 息子たちを首都ウラジーミルに籠らせ、自らは他のルーシ諸侯の兵を搔き集めるべく、奔走を試みたようだが――

 その首都はモンゴル軍の新技術によって瞬く間に攻め落とされ、息子たちを含む家族・親族は皆殺しにされた。

 

 その報せを聞き――

 ユーリー2世は愕然としたらしい。

 

 自身の居城が瞬く間に攻め落とされるとは夢想さえもしていなかったのだろう。

 

 ほぼ全てを失ったユーリー2世は――

 なけなしの兵力で再びモンゴル軍に野戦を挑み、完膚なきまでに叩きのめされ――

 自身も戦場で首を取られたという。

 

 この時の不名誉を消し去るために――

 その後のロシアの歴史があるのではないか。

 

 そうとさえ思える。

 

 『随に――』

ロシアとは――

 ――ロシアとは、いかなる国か。

 

 この問いに向き合う上で――

 欠かせぬ理解が2つある。

 

 1つは、

 ――ロシアは若い歴史の国である。

 ということ――

 

 その祖であるモスクワ公国が、モスクワ大公国となり、ロシア・ツァーリ国となり、ロシア帝国へとなっていった。

 

 その過程のどこにロシアの歴史の起点を置くべきかは判然とせぬが――

 それを最も早い時点に見出すとしても――

 13世紀の後半――モスクワ公国の発足――である。

 

 もう1つの理解は、

 ――ロシアは歪な構造の国である。

 ということ――

 

 モスクワ公国から身を起こし――

 モスクワ大公国ロシア・ツァーリ国ロシア帝国と立身を遂げていく過程で――

 ロシアは、東方に巨大な版図を得た。

 

 シベリアである。

 

 この新版図を――

 日本の高名な歴史小説家は、

 ――巨大な左腕

 に喩えている。

 

 ――右腕

 は、東欧である。

 

 その“右腕”は、矮小とはいわぬが、“左腕”よりも遥かに短小であることは確かだ。

 

 ロシアは――

 この“左腕”の先端に“虫”が止まると――

 その“右腕”で払い除けねばならぬ。

 

 が――

 短くて小さいので、なかなかに払い除け難い。

 

 1904年の日露戦争などは、“虫”を払い除け損ねた事例の典型として、ロシアの苦い記憶となっていよう。

 

 『随に――』

この決裂が――

 キーウからモスクワへの権力の移管が、

 ――タタールの軛(くびき)

 のない時代に完了をしていたならば――

 旧ルーシの近現代史は、だいぶ変わっていたに違いない。

 

 ウクライナもロシアも――

 時代の流れの帰結として――

 キーウからモスクワへの覇権の移ろいを自然と認めていたであろう。

 

 例えば――

 日本において、京都から東京への覇権の移ろいが自然と認められているように――

 

 実際には――

 そうはならなかった。

 

 ウクライナとロシアとで――

 覇権の移ろいの観方が不可逆的に決裂をした。

 

 ウクライナからみれば、

 ――モスクワは、“草原の帝国”に巧く取り入り、どさくさに紛れてルーシの覇権を掠め取った。

 であった。

 

 ロシアからみれば、

 ――モスクワは、旧ルーシの人々の代表として、“草原の帝国”からルーシの覇権を奪い返した。

 であった。

 

 この決裂が――

 ウクライナをして、

 ――ウクライナは旧ルーシの発祥国であり、ロシアの“親”である。

 と信じせしめ――

 ロシアをして、

 ――ロシアは旧ルーシの後継国であり、ウクライナの“親”である。

 と信じせしめた。

 

 つまり――

 ロシアもウクライナも、

 ――自分たちこそが“親”だ。

 と信じるに至った。

 

 それは、

 ――タタールの軛

 が決定的にした不幸である。

 

 かの地に、

 ――タタールの軛

 を齎(もたら)した者たちは、まことに罪深い。

 

 『随に――』

もし“タタールの軛”のない時代に――

 ――タタールの軛(くびき)

 は、今日のロシアに暗い影を落としている。

 

 政治史的に――というよりは、文化史的に――強いていえば、精神史的に――

 である。

 

 純粋に政治史的には――

 モスクワ公国が、モスクワ大公国となり、ロシア・ツァーリ国となり、ロシア帝国への礎を築いていく過程で、

 ――タタールの軛

 は、概して正の作用を及ぼした。

 

 見方を変えれば――

 モスクワ公国と、その後裔の国々とは――

 この“草原の帝国”の支配下に入ったことを巧みに活かし、旧ルーシでの覇権を握った――

 といえる。

 

 政治の技術としては、

 ――見事

 というしかない。

 

 が――

 その技術は、わかりにくかった。

 

 何といっても、“草原の帝国”の支配下にあってこその覇権だった。

 いわば、

 ――地下の覇権

 である。

 

 ――地上の覇権

 は、“草原の帝国”が握っていた。

 

 この捻じれが――

 文化史的に――あるいは、精神史的に――ロシアに暗い影を落としている。

 

 それを不当とみる人たちが――

 ロシアの外で、旧ルーシの内に――

 いる。

 

 ウクライナの人たちである。

 

 ――タタールの軛

 が、ロシアにだけでなく、ウクライナにも、暗い影を落としていることは、想像に難くない。

 

 が――

 その“影”は、ロシアに落としている“影”とは、だいぶ性質を異にしている。

 

 例えるならば、

 ――ルーシの覇権は、我々がタタールの軛で頸の後ろを押さえられている間に、モスクワの者たちによって掠め取られてしまった。

 といった意味合いでの“影”である。

 

 ――ルーシ

 は、

 ――キエフ大公国

 の別名でも知られている通り――

 少なくとも、その建国期においては、今のウクライナに政権の基盤があった。

 

 ――キエフ

 は、ウクライナの首都キーウのロシア語風の音である。

 

 要するに――

 ルーシの覇権は、キーウからモスクワへ――いいかえるなら、ウクライナからロシアへ――移ろっていった。

 

 この移ろいが、

 ――タタールの軛

 の下で完了をしたことこそ――

 両者にとって、最大の不幸ではなかったか。

 

 この権力の移管が――

 もし、

 ――タタールの軛

 のない時代に完了をしていたならば――

 旧ルーシの近現代史は、だいぶ変わっていたはずである。

 

 『随に――』

亡国ルーシの残像

 ――モスクワ公国

 の発足は、13世紀の後半と考えられる。

 

 当初は、

 ――ウラジーミル・スーズダリ大公国

 と呼ばれる旧ルーシの分国の、

 ――そのまた分国――

 だった。

 

 このモスクワ公国が――

 14世紀初頭、にわかに版図を広げ、

 ――モスクワ大公国

 と名を変える。

 

 やがて――

 モスクワ大公国の君主は、本国筋であるウラジーミル・スーズダリ大公国の君主を兼ねるようになった。

 

 15世紀後半には、ジョチ家の末裔との戦いに勝利を収めて――

 念願の、

 ――タタールの軛(くびき)

 からの離脱を果たす。

 

 16世紀半ばには――

 君主の称号として、「大公」の代わりに、「王」や「皇帝」の意味である、

 ――ツァーリ

 を用い始める。

 

 これを踏まえ――

 モスクワ大公国は、

 ――ロシア・ツァーリ国

 と称するようになった。

 

 このロシア・ツァーリ国が、後のロシア帝国の前身となる。

 

 そして――

 そのロシア帝国が、1917年の市民革命で瓦解をし、ソビエト連邦が発足をして――

 そのソビエト連邦に、現在のロシアが取って代わった。

 

 つまり――

 現在のロシアは、モスクワ公国の後裔といえる。

 

 この系譜は――

 現在のロシア政府の歴史観を推し量る上では重要であろう。

 

 モスクワ公国が現在のロシアに至るまでの歴史からは、

 ――タタールの軛

 の屈辱を紛らせるために、

 ――亡国ルーシの残像

 を頼りたくなったルーシの人々の心情が――

 仄かに伝わってくる。

 

 『随に――』

屈辱の時代――タタールの軛

 ルーシの諸侯たちは、モンゴルに征服をされ――

 13世紀前半から15世紀後半にかけ、屈辱の時代を過ごした。

 

 この時代は、

 ――タタールの軛(くびき)

 と呼ばれる。

 

 ――タタール

 とは――

 本来、ユーラシア大陸の広大な草原で暮らしていたトルコ系民族のことを指すが――

 ここでは、モンゴルないしジョチ家――東欧を治めることとなったチンギスの長子ジョチを祖とする一族――を指す。

 

 また、

 ――軛

 とは――

 牛馬の頸の後ろに渡す横木を指し――

 車を引かせる時に用いる。

 

 ルーシの諸侯たちは、自分たちを、

 ――草原の帝国

 という名の“車”を引かされる“牛馬”に見立てた。

 

 以上は――

 ルーシの立場で視た光景である。

 

 傍観者の立場で視れば――

 ルーシの諸侯たちに対するモンゴルないしジュチ家の処遇は、決して苛烈一辺倒ではなかった。

 

 モンゴルないしジュチ家は、ひと度、歯向かった者たちを容赦なく殺し尽くしたが――

 当初より恭順の意を示していた者たちには、概して寛大であった。

 

 広範な自治を許し――

 貢納や軍役の義務を課すに止めた。

 

 こうした統治の方針に適応をしえた諸侯たちが――

 旧ルーシで有力となっていった。

 

 それら諸侯のうち、事実上、旧ルーシの過半を統べていったと考えられるのが――

 モスクワを拠点とする、

 ――モスクワ公国

 だった。

 

 ここでいう、

 ――モスクワ

 とは――

 後にソビエト連邦ロシア連邦の首都となる――

 あの、

 ――モスクワ

 である。

 

 『随に――』

我こそ亡国ルーシの再興者たらん

 東欧・北欧の専制国家ルーシを、13世紀初頭、東方から襲ったのは、

 ――草原の帝国

 モンゴルだった。

 

 初代君主チンギスの時代に――

 武力偵察を狙ったと考えられる小規模な侵略があり――

 二代君主オゴデイの時代に――

 本格的な侵略が始まった。

 

 ルーシでは、相も変わらず、何人かの有力な諸侯たちが割拠をし、互いに争っていた。

 

 それでも――

 父祖伝来の国家が征服をされる危機を察して――

 ルーシの諸侯たちは、互いに反目をやめ、協力に転じ、防衛に当たろうとした。

 

 辛うじて、

 ――1つの国家

 の体裁が蘇った。

 

 が――

 防衛のできる相手ではなかった。

 

 モンゴル軍は――

 ほぼ全てが騎兵で構成をされていたという。

 

 モンゴル高原で幾多の激戦を勝ち抜き――

 これを統べ――

 その後――

 ユーラシア大陸の広大な草原で緻密に錬成をされていった騎兵である。

 

 その俊敏な機動力と柔軟な統制力とは――

 ルーシの諸侯たちの常識を超えていた。

 

 少なくとも、彼らが常識としていた騎兵ではなかった。

 

 モンゴル軍は分散と集結とを自在に繰り返せたという。

 

 分散によって、敵軍にも分散を強い――

 集結によって、分散の敵軍を各個に囲み、一つひとつ屠った。

 

 それは、「戦闘」ではなく、「虐殺」というべき一方的な戦いだった。

 

 ルーシの諸侯たちの軍は、各個に撃破をされ、城塞は壊され、領民を殺され、領地を荒らされて――

 大混乱に陥った。

 

 その中で――

 ルーシの君主――大公――の地位や権威は永遠に失われた。

 

 その前から実質的に失われてはいたが――

 モンゴルに征服をされたことで――

 名目的にも失われた。

 

 ルーシの諸侯たちは、草原の帝国への隷従を受け入れ、その版図に組み込まれながらも、

 ――我こそ亡国ルーシの再興者たらん。

 と念じつつ――

 捲土重来を期すようになった。

 

 辛うじて蘇った、

 ――1つの国家

 の体裁が――

 残像を結んでいた。

 

 以後、2世紀半ほどの間――

 ルーシの諸侯たちは、屈辱に塗れて過ごすことになる。

 

 『随に――』

どちらも「自分たちこそが“親”だ」と――

 ロシア人たちもウクライナ人たちも「自分たちこそが“親”だ」と思ってきた――

 それゆえに起こったのが、2022年のロシア政府によるウクライナ侵略である――

 

 そう考えれば――

 合点がいく。

 

 あの戦いの凄惨さの理由が――

 よくわかる。

 

 ……

 

 ……

 

 ――どちらも「自分たちこそが“親”だ」と思ってきた。

 とは、どういうことか。

 

 ……

 

 ……

 

 9世紀から13世紀にかけて――

 東欧・北欧に、

 ――ルーシ

 と呼ばれる専制国家があった。

 

 ――大公

 を君主に戴き――

 その下に有力な諸公たち――貴族たち――を君主とする公国――分国――が幾つかあって――

 互いに緩やかな連合をしていたようである。

 

 その版図は――

 大まかにいって、今日のロシア政府の領土の西方およびウクライナ政府の領土、ベラルーシ政府の領土と重なっていた。

 

 この専制国家は、9世紀の終盤に成立をし――

 以後しばらくは、

 ――1つの国家

 の体裁が保たれていたが――

 

 11世紀から12世紀にかけ――

 次第に保たれなくなってくる。

 

 国家が分裂を始めた。

 

 もともと幾つかの分国の寄り合いであった。

 分裂は自然な流れであった。

 

 この分裂に拍車をかけた出来事が起こる。

 

 13世紀の初頭――

 東方からの侵略である。

 

 『随に――』

親子喧嘩

 ロシア政府によるウクライナ侵略の戦争では――

 2023年秋頃から次第に厭戦気分が漂い始めている。

 

 ウクライナ軍が反転攻勢を仕かけ、

 ――思うような成果を上げられていない。

 と判明をした頃である。

 

 ……

 

 ……

 

 この数年で顔見知りになった高齢の男性がいる。

 

 長らく防衛関連の職に就き――

 今は引退をして別の職に就かれている。

 

 この男性に、ロシア政府によるウクライナ侵略のことを訊くと――

 

 「あれは親子喧嘩みたいなものですから――」

 と仰るので――

 

 「『親子喧嘩』ですか? 『きょうだい喧嘩』ではなく?」

 と訊いた。

 

 ……

 

 ……

 

 ロシアとウクライナとは、ともに、

 ――ルーシ

 の後継国と自認をしている。

 

 ――ルーシ

 とは、9世紀から13世紀にかけ、東欧・北欧にあった専制国家である。

 

 日本語圏では、

 ――キエフ大公国

 の名で知られていた。

 

 同じ大公国を自国の祖と見なしているのだから、

 (「親子」ではなく、「きょうだい」だろう)

 と思ったのである。

 

 が――

 

 「いえ、『親子』です――『きょうだい』ではなく――」

 と仰る。

 

 「では、どちらが『親』で、どちらが『子』ですか」

 と訊くと――

 

 「どちらも『自分たちが“親”だ』と思ってるんじゃないですか」

 と仰る。

 

 それで合点がいった。

 

 つまり、

 ――現実の親子喧嘩より遥かに凄惨な“喧嘩”である。

 と仰っているのである。

 

 「親子喧嘩というのは、なかなか終わりませんからね。大変ですよ」

 

 (たしかに――)

 と思った。

 

 『随に――』